この日記の前に2本ほど記事を書いていたのだが、いずれも自己検閲が厳しく、センシティブの烙印を捺すことになってしまい、公開できなくなった。
抑うつ状態にある時にどのような記事を書いていたのか思い出せない。
ただ一つ云えることは、弱者は語り得ないのだということで、結局のところ私も弱者に分類される以上は語り得ることは少ないということだ。無理に語ろうとしたところで誤解をされておしまいかもしれないし、それが自分自身だけに向けられるものであればいいのだが、他者を巻き込む形になってはどうしようもない。
そういうわけで2本の記事を見送ってこの記事を書いている。
どうにも弱っているので、朝から気になっていた、1月に出たBonoboの新譜と、友人との話題に上った中島ノブユキ「散りゆく花」をフルで聴いた。
音楽に関しては専門的なことはわからないが、私にとってBonoboはテクノアーティストの中でも特に好きなアーティストで、その洗練された楽曲の数々には毎回驚かされる。
中島ノブユキの哀感を帯びた「散りゆく花」は今日のようにブルーな一日に優しく寄り添ってくれて、さらに聴き込んでいきたいアルバムとなった。
そうして家事を片づけて、詩を書いた。
ここのところキリスト教に惹かれる気持ちが再び頭をもたげてきていて、そうしたテーマも織り込んだ。
どうにも真っ当に生きられないから、せめて少しぐらい心は清く澄ませていたいものだと思う。
そういうことをつくづく感じたのは、北京オリンピックのハイライトを報じるワイドショーを観ていた時のことだった。
コロナ禍でのオリンピック開催にはこれまで反対してきたし、その気持ちは今もあるけれど、その一方でこのように努力を積み重ねてきた選手たちが、喜びや悔しさを露にしている様子を見ていると、そこに水を差すのは無粋なのではないかという気がしてくる。
マスメディアが大仰な物語を仕立て上げるのも、時勢を忘れて熱狂の渦に巻き込まれるのも、私はごめんだと思ってきたけれど、それでも選手たちはそれぞれに素晴らしい結果を残し、あるいはここまで努力を積み重ねてきたのだから、そこには敬意を表したい。
もともと私は冬季オリンピックが好きで、トリノからほぼ欠かさず観てきたけれど、今大会はフィギュアスケート男子フリーと、カーリング女子決勝の一部を観るだけに留まった。
変に我を張らずに観ておけば良かったなと思うし、そう思ってももう遅い。
特に平野歩夢選手の試合はやはり観ておきたかった。スノーボード男子ハーフパイプ決勝の試合は歴史に残るものだったと思うし、朝日新聞の記事を読んで、彼の決断のあり方が印象に残ったのだった。
すでに成果を出している道を行くのか、それとも新たな模索の道で挑むのか。
普遍的な問題がそこにはあると感じる。創作にしても全く同様で、私が詩歌の道を最終的に選ぶに至ったのは、適応障害という持病が第一にあったけれど、それ以上に公的に評価してくださる方がいるという背景が大きかった。
ココア共和国に散文詩を5度に渡って佳作として掲載していただいたから、あるいは短歌で二度佳作入選の結果を残せたから、この道を行こうと決めた。
まだまだ道半ばではあるけれど、それでも自分の信じる道を進めるように、今後とも励んでいきたい。
この後はさらに短歌を詠みたいと思っている。
主人と先日話した折に、療養詩歌を作ることについて話した。
主人とはあまり創作の話はしないようにしているのだけれど、この時にはこの下りのことを横山未来子さんの短歌を引き合いに出して評価してくれて、とても嬉しかったのだ。
病んだ心身というフィルターを通じてしか物事を知覚できないことに、私は強い理不尽さを抱えてきた。物語の多くの主人公たちは健康な男女だし、そこに私のように心身を病んだ人間の居場所はないという思いが強かった。
そういう病んだ心身を通じて映し出される世界というものを作品に留めておくというのは、世間一般からすると価値のないことなのかもしれないが、それでも私はその世界をわずかばかりでも残しておきたいと思う。
アウトサイダーアート、あるいはアールブリュットという言葉が世の中に認識されるようになって久しい。同じような試みが文学でも可能であるならば、それを表現してみたい。
横山未来子の短歌は私も主人も好きで、主人から歌集を贈られたこともある。
改めて読んでみると新たな発見があるのかもしれないし、さらに他の歌集も読んでみたい。
そうして短歌を8首詠んだ。これまでより方向性が定まってきたという感があるので、できれば整えてどこかしらに投稿したい。