創作・読書トピックに再びお邪魔していました。
お読みくださった皆様、評価してくださった皆様、ありがとうございます。
今後とも当ブログをよろしくお願いいたします。
さて、ワクチン接種3回目4日目となり、ほぼ副反応の症状はなくなったものの、メンタルがどうにも不調だ。
仕方ないので副反応で臥せっている間恋しかった日本茶を淹れて一息つくことにした。
淹れたのは嬉野茶で、出身地長崎の隣県、佐賀県の銘茶となる。
母のご友人のご婦人からいただいたお茶で、ありがたく味わった。
それからメモ帳を使って詩歌タイムアタックをして、50分時間を測って短歌と詩を作ったものの、出来栄えがあまりよろしくない。
この時勢だから作る詩歌もどうしても反戦色が強くなり、それは必要なことだと思う反面、もう少し平時の作風に戻せないものかとも思う。
ココア共和国にも5月号にはそうした反戦詩が並ぶことになるのだろうか。
編集部の判断がどうなるのかはわからないけれど、それでも詩誌を通じて反戦を訴えるという試みはやはり必要だと思うし、そうして声を上げる役割が私には文学にはあると信じている。
無論そうして投稿した詩が落とされる可能性もあるけれど、それでもココア共和国にも詩誌としての役割を期待したいし、仮に私が落とされたとしても、他の詩人の作品として反戦詩が掲載されることを望みたい。
コロナ禍については私は極力詩に書き込まないようにしてきたけれど、コロナ禍と戦争とはやはり本質的には大きく異なっていて、戦争反対の意を訴えることは、詩誌が一つのメディアである以上は避けては通れないし、そうすべきなのだろうと思う。
短歌ではそうした反戦を詠む歌がこれまでにも数知れず発表されてきた。
私はこれまで本質的なところでその歌意を理解できていたとは云い難い。ただこの戦時下にあって、やはり短歌の担うべき役割は決して小さくはないのだと改めて思う。
先日、朝日新聞の記事で大岡信賞を受賞した小島ゆかりさんのことが詳細に書かれていた。
短歌は、まして私の歌は、たとえば、ただいまの悲しい世界情勢ですとか、自然災害ですとか、大きな悲しみの前には限りなく無力に近いと思います。思いますけれど、それでもやっぱり、自分には歌しかないので、これからも作り続けていきたいと思っています。
毅然とした言葉だと重く受け止めたい。
小説の道を諦めて、詩歌を作ると決めてから一年が経ち、この間さまざまな葛藤があったり、小説に戻れないことを強く悲観したりして、自分の心の折り合いをつけることに苦心してきた。
それでもようやくここ最近に至って、詩歌を作ることの自分なりの必然性も見えてきたし、自分が詩歌を作る意味をようやく見出すことができたと感じている。
それは統合失調症と適応障害という病と戦いながらの泥臭い道のりではあったけれども、それでもこの苦しい一年を経験しなければ得られないこともたくさんあったのだと今は思っている。
周囲からは「恵まれている」とか、「いい暮らしをしていて何より」とか、時につらい言葉を突きつけられることも多くて、心が折れそうになる日もあったし、最近でもそうした場面があり、自分なりに人が味わわなくて済むような苦労してきたつもりでも、分かってくれる人はいないのだなと悲観的になることもあった。
それでもその苦しみが詩歌を作る原点にあるのだとしたら、それもまた決して無駄というわけではないのだろう。
たしかに私は社会人としての苦労は知らないし、世の中の一般的な人が味わっている労苦のいかほども理解していないのかもしれないけれど、だからと云って全く呑気に平穏無事に暮らしているわけではないことは、この一年というものの日記に書き綴ってきた通りだ。
おそらく今後も世の中の状況が良くなるとは到底思えないし、悪くなる一方の世の中で生まれて30年を生きてきたけれど、この先も加速度的に状況は悪くなるのだろうと思う。
その中でもなんとか自分なりに生きる希望や目標を持ちつづけていきたい。