ANIRON

ひとりごと日記

2022.03.11 発語する前に思考すること

ふたたび創作トピックにお邪魔していました。

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お読みくださった皆様、評価してくださった皆様、ありがとうございました。

引き続き当ブログをよろしくお願いいたします。

 

ここにきて創作意欲に翳りが見えはじめた。

ウクライナ情勢悪化前はコンスタントに詩を書き、短歌も頻繁に作っていたのに、どうにも筆が鈍っている。

このままではよろしくないと思えば思うほど沼に足を取られそうで、弱ってしまった。

明日には歌会を控えているのに、なかなか歌を詠めずにいて、未発表でこれはというものは公募に出してしまったために、歌会に出す詠草にはやや物足りなさがある。

私のような下手な歌詠みは、もう少しコンスタントに量をこなさないとどうしようもないし、甘えたことばかり云ってもいられない。

どうにも反戦詩歌を意識しすぎるあまり、かえって詩作や作歌から遠ざかってしまった節がある。

無論その反戦を歌うことには大きな意義があることは確かだし、前にも書いた通りだ。

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私は被爆地に生まれ育った身として、そして被爆校を出た身として、反戦を訴えるべき責務がある。それは重々承知しているし、異論はない。

ただ、私のような弱いひとりの人間の手には余るのではないかという思いも一方ではある。

これまで私はたびたびウクライナへの人道支援の募金に寄付をしてきたし、今日も少額ながら寄付をした。私にできることはそれで精一杯なのかもしれない。

これまで震災、コロナ、そしてこの戦争と、さまざまな大きな困難と対面することになったけれど、震災もコロナも、私は創作活動と結びつけることは遠ざけてきた節がある。

震災に関しては直接体験していないので語りうることはないし、ただ被災地の方々にできるうる限り思いを馳せることしかできない。

コロナに関しては当事者ではあるけれど、それを詩歌で歌いたいとは思わない。

反戦に関しては私には声を発する責務がある。そうでもなければ原爆のさなかに聖歌を歌いながら亡くなっていった先輩方に合わせる顔がない。

ただ、それはなかなか身に余る重責だとも感じていて、その折り合いをまだつけられていないというのが正直なところだ。

ただし、言葉を発さなければならない局面というものもあって、今はまさにそうした状況にあることは間違いない。原爆について、あるいは戦争について、私が語る資格を持ちうるのかと、随分と悩んでいた過去もあったけれど、今言葉を発しなければ、戦火は私たちをも飲み込むことになりかねない。

無論言葉を発したところで無力なのかもしれないが、とにかく戦争を許さないという世論を示さなければ、状況は全く改善できないのは確かなことで、戦争はすぐ足元まで迫っている。

そういう時に語る資格を持ちうるかどうか、よくよく熟慮することは誤りではないにせよ、それでも状況を考えなければならない。

ここのところ創作意欲が落ちていたのも、単にウクライナ情勢を巡る報道で気が滅入っていたからということではないということは書いておきたい。

昨夜から吉増剛造『詩とは何か』を読んでいる。

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想像していたよりもずっと読み応えのある、気骨のある一冊で、読んだところでここはというところはページを折っているのだけれど、どのページを繰ってみても新鮮な驚きと発見があり、著者の思慮深い筆致によって掘り下げられる詩の世界に惹きつけられずにはいられない。

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そこで次のような文章に出会った。

(…)第二次世界大戦を経まして、「詩」の姿は完全に変わってしまった、……というのがわたくしの考えです。「詩」はもはや、それ以前のような在りかたでは成り立つことができなくなってしまった。アドルノが、「アウシュビッツの後で詩を書くのは野蛮だ」と言いましたけれども、そのことにも、これは通底するのではないかと思います。

田村隆一さんは、戦争の余韻未ださめやらぬとき、戦場での砲声や軍人の怒号や、あるいは硝煙が、あるいは戦後すぐの焼け野原の貧しさがまだすぐそこに残っているような時に、『四千の日と夜』という詩集の中でこう語りました、「一篇の詩を生むためには/われわれはいとしいものを殺さなければならない/これは死者を甦らせるただひとつの道であり、/われわれはその道を行かなければならない」と。

──吉増剛造『詩とは何か』講談社、2021年、p52

おそらく、このウクライナ情勢の急激な悪化も、もはやそれ以前には戻れない歴史的な分岐点の一つとなるのだろう。

そのような時にこのような覚悟を持って詩と対峙することができるのか。あるいはその痛みを背負って、それでも詩を歌うことができるのか。今まさに私自身も問われているのだと思う。

小説講座では適応障害を発症するに至ったけれど、それでもさまざまに考えさせられる言葉の数々との出会いがあった。そのうちの一つが、「発語する以前」という言葉の重みだった。

今、詩を書くに際して、私は発語する前にとてもためらいを感じているのだと思う。

そのためらいを軽率に扱わぬようにしたい。せめてこうして詩と改めて向き合うときに、あるいは詩を書くという発語を行う前に、一度立ち止まって考えたい。