著しく消耗した一日だった。
昼ごろ歌会を催して、まさやまさんにおめでたい話があって、今後とも会を続けていくのがなかなか難しくなってしまった。
まさやまさんとは先日も短歌読書会をしたり、歌会をしたり、大変お世話になってきた。
今は素直にその新たな人生のステージへ進む彼女にエールを送りたい。
とはいえ、私は私でこの歌会にずいぶんと支えられてきたことも確かで、そのお相手が都合がつかないとなると、新たな場所を求めねばならない。
持病があって対人関係に困難を抱えている以上、結社に入ることはなかなか難しいのが現状だし、半年1万円の参加費も、継続的に払い続けることを考えると、専業主婦にはなかなか荷が重い。
そこで短歌講座の受講を視野に入れてもいいのかなと思いはじめている。
とはいえ小説講座で何度もプロットにダメ出しをされて心が折れてしまった身としては、なかなかそれもハードルが高い。つくづく適応障害とは厄介な病気だと思う。
このウクライナ情勢以降、メンタルも弱っているし、ひとまず治療に専念することが先決だと思っている。たとえ創作仲間がいなかったとしても、それでも短歌というものは孤独な文芸ジャンルにはなり得ない。投稿する場があれば間接的に人とつながることはできるし、歌誌を買えばそこには歌人たちの作品がある。
そうして間接的に人とつながることが今は精一杯なのだろうと思う。
そうして幾らか気落ちしていると、主人がブックオフに行かないかと誘ってくれた。
重い足を引きずりながら、呼吸を乱しながら、なんとか歩こうとするのだけれど、歩いているだけで頭がぼーっとしてくる。
やむなく主人がベンチで休ませてミネラルウォーターを買ってくれて、それを飲んで少し休み、ようやく辿り着いた。
前にエミリー・ディキンソンの詩集があったのでそれを狙っていたのだけれど、あいにくとすでに棚にはなく、比較的広かった詩歌コーナーも随分と縮小されてしまっていた。とても残念なことだと思う。
それでも棚にフランクル『夜と霧』が並んでいたので迷わず手にした。
ここのところ適応障害の本を読んで、その中に『夜と霧』が引用されているのをとても興味深く読んでいたのだ。
もともと『夜と霧』に関しては、100分de名著で読んでいたこともあり、ぜひ原作を読みたいと思っていたので、先日岡田尊司氏のこの本で読んで、改めて読みたいという思いが高まっていたのだった。
また文庫コーナーにも足を運ぶと、主人が気になっていた啄木歌集や、私自身の愛読書である戸澤宗充『すべてを喜びとする』にも引用されている、中村元『ブッダのことば』など、気になる本が多く、小西甚一『俳句の世界』は名著ということなので買うことにした。
また宗教学にはかねてから関心があって、学生時代からぽつぽつと読んでいたので、『宗教学入門』も買うことにした。
そうして帰る頃には幾らか足取りも軽くなり、主人がミスドでドーナツを買っていこうというので、二人ともチョコオールドファッションを選んで帰宅した。
私にも無限に可愛がれる対象が欲しいという話をした。
持病もあり、子供は苦手なので産むつもりはないけれど、自分がひたすらに愛情を注いでも何ら影響のない対象物がほしい。
かねてから飼いたいと思っている猫は、住宅を変えない限りは難しいのでこの際除外しておく。
そういう意味でもやはり人形を買うというのは一つの手なのだけれど、スーパードルフィーや作家の球体関節人形に憧れながらも、経済的な理由でなかなか手が出せずにいる。
できることならIFの二人をイメージにしたドールが欲しいと思うのだけれど、一体ならまだしも二体はなかなかハードルが高い。貯金に励みたい。