ANIRON

ひとりごと日記

2022.03.12 短歌を詠むこと、文学という奢侈品について

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身バレが怖いので写真は載せずにおくけれど、ブックオフに行くついでにとある寺に立ち寄った。

そこで感じたことを歌に詠んでおきたいと思い、何首か詠んだ。

ここ数日、作歌をすることにためらいを感じたり、うまく発語できないもどかしさを覚えたりしていたのだけれど、外に出てみると必然的に自己というものが世界に対してどのような立ち位置にあるかがわかる。

そのことがとても恐ろしかったし、ただでさえウクライナ情勢の悪化でナーバスになっているので、外に出ることそのものに対して恐怖感が増していた。

その恐怖を歌に留めておくことが、今私が世界に対して感じていることを詠むことにつながるのだなと実感した。

短歌はやはりどうしても「私」から、あるいは「私の目」というものから逃れることはできなくて、それは詩も同様なのだけれど、詩歌を通じて自己と、自己が対峙する世界を歌うという根源的なところに行き着いたのだなと思う。

耽美的な歌を作っているときにはそうした実感はなかったし、今も時事問題をそのまま詠みこめばいいとは私は考えていない。

ただ仰々しく反戦を歌うというよりも、「私」から見た、あるいは「私」が感じた世界を詠むことが、そのまま今の世界のあり方を反映することにつながるのだと思う。それは卑近な歌になってしまうかもしれないし、華やかな歌にはなり得ないかもしれない。

それでも以前読んだ、村上春樹の「石が浮き木が沈むということが文学の世界では起こりうる」という指摘がもっともなように、短歌においても同じことが云えるのだと私は思う。

たとえ表立って歌意に反戦の意をこめようとしなくとも、自ずと今の世界を歌えば、それは歌に反映されてくるのだと肌で感じることができて、やはり外に出て短歌を詠むことの重要性を身をもって感じたのだった。

 

お寺では、私は家内安全と健康の他に、文学の道をこのまま進みたいということを誓った。

それは祈りというよりも、決意を込めてのことだったけれども、やはり重力に負けるわけにはいかないという思いを新たにした。

それはこちらの記事にも似たようなことを書いたので繰り返さないでおくけれど、ともすれば「困難な時代の最中にある、30代の子なし専業主婦」という身分にずぶずぶと沈んでしまいそうになるのを、何とか意を決して、抗おうとする試みに他ならない。

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戦いつづける意思がなければたちまち重力に足を取られる。それは時代であったり、30代という年齢であったり、あるいは女性というジェンダー的役割であったりするけれど、とにかくその重力に逆らい続けなければならないことは確かで、重力に負けた瞬間に私はただの30代の専業主婦になってしまう。

だからまだ負けるわけにはいかない。重力に逆らいつづけることを恐れてはならない。

文学の道をゆくことはそう生やさしいものではないのだと、この文学の末席に座す私にも年を追うごとに感じられるようになってきた。

20代の頃には感じなかった重力をひしひしと肌身で感じるし、若いときに幾らか創作活動をできていたのはごく当然のことで、この先も続けていけるかどうかが、本当の勝負になるのだと感じている。

以前Twitterで付き合いのあったご婦人が「恋愛は奢侈品」と書いているのを見かけたことがあるけれど、文学もまた奢侈品なのかもしれない。ごく一部の限られた人間にのみ与えられる贅沢なのだと考えれば妥当というものだろう。

その贅沢が今こうして自分自身に与えられていることに感謝しなければならないし、その前提にたった上で前に進んでいかねばならない。

あるいはヴァージニア・ウルフなどを読めばその幾らかでもうまく言語化できるのかもしれないし、これまでは遠ざけていたフェミニズムに関しても、少しばかり勉強してみてもいいかもしれないと思う。