ANIRON

ひとりごと日記

2022.03.15 短歌を詠み、短歌を考える

今日は詩を投稿し、掌編を書き、さらに短歌を詠んだ。aniron.hatenablog.com

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コンスタントに再び詠みはじめたのは12日からで、30首になった。

ここのところ誰にも打ち明けられないことを短歌に詠むことが多くなってきた。

それは私にとって詩の役割だったのだけれど、詩は私にとって悲しみを歌うものだから、悲しみとも喜びともつかない、感情の微細な動きを捉えるには短歌の方がより適しているのかもしれない。

最近見た、トーベ・ヤンソンを主人公にした映画「トーベ」を観て感じたことを、どうしても何かしらの形に留めておきたかったのだけれど、それはセンシティブでプライベートな局面に踏み込むことになるので、どうしても大っぴらに書けない。

ただその秘しておきたい感情のもたつきを、短歌という器はあっさりと受け入れてくれたことがうれしかった。

夕食を摂りながら、主人と短歌の話をした。

いつもとは違って私が話す場面が多かったのだけれど、短歌講座を受講したいと考えていることや、口語or文語のどちらで短歌を詠むかということに話が及んだ。

私は水原紫苑『如何なる花束にも無き花を』を読んだ後では、到底文語では詠めないし、文語を用いるにはその必然性がなければならないのだということに気づいたという話をした。

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また文語は正確に使いこなせなければ一発KOされてしまうこと、自分自身にその技量がないことを半ばいじけるようにして語ったのだけれど、主人に「きみの表現したいことは口語の方が合っているのかもしれないよ。NHK短歌大会でも口語短歌を評価してもらっているし」と云われた。

口語で短歌を詠むことは気恥ずかしいという思いがかねてからあって、文語を使いこなせない自分を深く恥じてきた一面があったのだけれど、考えてみれば私が今表現したいことは、耽美的・審美的・高踏的な短歌ではなく、もっと自分に近しいところにある短歌なのだと思う。

口語で短歌を詠む是非はさまざまな議論があるのだろうけれど、少なくとも自分の表現に即した文体を選ぶことは絶対に必要なことで、そこに乖離があると途端に短歌としての格調を失してしまうのだろうと思う。

そういう点では啄木はすごいと主人は云う。

先日公園で朗読してもらった啄木の短歌たちは、文語表現ながらもその軽みと普遍性は口語的とも云えるものだった。

私はかねてより萩原慎一郎の短歌を心から尊敬しているのだけれど、その大元にはおそらく啄木の系譜があるのだろうと思う。

青春と厳しい労働から生まれてきた爽やかな短歌の数々は、安穏と生きている私には到底生み出せるものではないけれど、それでも詠みたい短歌のありようを模索する中で、もっと口語を使いこなしたいという思いに駆られる。

ここのところニューウェーブ短歌に関心を持っているのも、その口語的表現の軽やかさに惹かれる気持ちがあるからなのだろう。

昨年読んだ上篠翔『エモーショナルきりん大全』、藤宮若菜『まばたきで消えていく』はぜひ再読したい。

さらに自分の短歌の表現を高めるべく、鑑賞力もつけていきたいと考えている。

なかなか評という形でしっかり読み込めないので、練習のためにもこの場を通じて書評をできるだけ細やかに書いていきたい。