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さて、昨夜は大きな地震があった。
東日本大震災を経験していなかった私には、これまでで感じたもっとも大きな地震となり、不安に包まれながら眠った。
夜中に都心で一人暮らしをしている妹から連絡がたびたび入っていたようで、朝になって何度かLINEをやり取りした。
夫婦ふたりで暮らしていても不安は大きいのだから、独り身であればなおさらだろうと思う。妹もまた留学していて東日本大震災を経験していないので、お互いに初めて体感する地震となった。
コロナ禍が始まった当初にもやや大きな地震があって、その時には一時間ほど妹と電話で話したことを思い出す。
せめて昨夜もそのようにしてケアができれば良かったのだけれど、あいにくと睡眠薬代わりの薬を飲んだあとだったので叶わなかった。停電もあったらしく、妹は不安な一夜を過ごしただろうと思うと、胸が痛む思いがする。
そうしてLINEでやりとりをしながらもTwitterを見ていると、このようなツイートに出会った。
コロナに戦争に地震。社会が不安定になっている今だから、身近な人とコミュニケーションを取ろう。家族はもちろん、職場や近所など。積極的に「無駄話」をしよう。無駄は全然、「無駄」じゃないから
— 三浦英之 LINE賞「帰れない村」文庫化 (@miura_hideyuki) 2022年3月16日
普段は雑談をするのが気が引けて、なかなか人に連絡ができずにいるのだけれど、今は無駄話でもいいから、できるだけ連絡を取ろうと思った。
友人とも雑談のやりとりをして、また別の友人には安否の確認の連絡を送った。
それから朝食代わりに主人が買ってきてくれたポケモンパンのドーナツと、ルピシアのシロニバリでお茶をした。
こうして何気ないお茶の時間を過ごせるのも、もはや奇跡に等しいことなのだと思うと、とてもつらい。
今回の震災で被災した方々、今もウクライナにあって戦火の最中にいる方々のおつらさは如何ばかりだろうと思う。
そうした思いで頭がいっぱいになって、気が重いままapple musicでGoldmundなどを聴いても気が晴れない。ふと「Cheer Up!」と名付けた矢野顕子のプレイリストが目に入って、かけてみると、泣きたいような思いに駆られた。
矢野顕子を聴く四首
地震のち「ラーメンたべたい」口ずさみ日々の重みを噛みしめる春
災禍あり「HAPPY END」見えぬまま雑炊煮込む日々のはかなさ
大禍なく老いることさえ難しく「SUPER FOLK SONG RETURNED」
台所立つのもつらい春だけど「ごはんができたよ」自分に告げる
そこで曲名を冠した短歌四首を詠んだ。
一応確認したところ、曲名は著作権に含まれないらしいということが分かったので、ネットで公開することにした。
連作になったものの、雑誌投稿するのは気が引けるし、扱いに少々困るジャンルだという理由もある。かといって一首だけ投稿しても意図が伝わらない。
ただそれ以上に、少しでも今感じている不安や恐怖を、人と分かち合うことで、誰かの感じているさまざまな思いと連帯をしたいという考えがあった。
矢野顕子をリスペクトして、できるだけ平易な言葉で詠みたいという思いがあり、いつも以上にくだけた調子になった。
昨日、次のようなことを書いた。
作歌はここのところ頻繁に作っていて、日々感じたことを歌に載せるのが面白いと感じている。
これは耽美的な作風で短歌を作っていた時期には全く味わえなかった喜びで、かねてから書いているように「木が沈み石が浮く」ということが短歌の場合は大半を占めるのではないかという気がしている。
そうして日々の卑近なところに端を発して短歌を作っていると、詩とは違ってより内面的な場所に触れるような歌が生まれることもあり、そのスリリングさと緊張感もやはり楽しい。
この「木が沈み石が浮く」はまさに矢野顕子の音楽性そのものなのだと思う。
日々の料理や日常の風景が、人生を歌うことに直結しているという驚きが彼女の歌にはあって、それでも軽みを決して失わない。
台所でふと口ずさむのにこれほど向いている日本語の歌もないのではないかと思う。
この短歌を詠んだあと、私もこのプレイリストをかけて、歌いながら皿を洗った。
先日観た映画「トーベ」で、トーベ・ヤンソンが軽やかに踊っているのを羨ましく思った。
私にとっては歌うことが感情を表現すること、詩歌を作ることに直結していて、あまり大声では歌わないけれど、これからは意識的に歌うようにしようと思い至った。
もはや平時とは云えない状況ではあるけれど、だからこそ日々のことをもっと大切に扱いたいと思う。今はそれが自分にとっての祈りに近しいのかもしれない。