ここ数日というものの、ウクライナ情勢の悪化やら、震災やら、コロナ禍やら、自分自身の持病の悪化やらで、すっかり参っている。
しかしそれらに参っている要因はただ一つしかないということに気づいた。
つまり、人間の善性というものを全く信じられなくなってしまっているということに思い至ったのだ。
Twitterの鍵垢から一歩足を踏み出せば、陰謀論が渦を巻き、人々が憎しみ合い、言葉の刃を向け合っている。その影響はNHKニュースにも及んでいて、陰謀論を否定する記事が取り上げられているのを見て、Twitterの状況は悲惨な有様なのだなと思わずにはいられなかった。
しかし私自身もその他者との深い断絶という傷と対峙せざるを得ない状況がつづいている。
実家にせよ、小説講座にせよ、いずれも人間関係の相克が発端となって適応障害を発症し、その影響は今なおつづいている。
適応障害の病状には波があって、夜になると悪化したり、月経の度に抑うつ感が増すのだけれど、適応障害の症状の根元には「理不尽にも私は誰かによって傷つけられた」という強い怒りと悲しみがある。
ここのところ、その頻度が増していて、ほんの些細な出来事をきっかけに、他者との間に隔たりを感じたり、耐え難いストレスを感じることが増えてきた。
これをグッと抑えて、ひとりでいる時にはそうした想いに囚われても、主人と話すときにはできうる限り明るく振る舞おうとする。他の家族や友人と接するときにもでるだけ心を砕く。
それがせめてもの誠実な態度なのかもしれないし、私にとっての善性だと云えるのかもしれない。
病状が思わしくなくて「人に傷つけられた」という感情が行き過ぎる時には、おおよそ人間というものの一切が信じられなくなったり、拒否反応を示したくなるけれど、それでも私は自分自身の善性を極力損いたくない。
損なわれてしまった時、そこには耐え難い苦痛と悲しみと怒りとがこみ上げてきて、悪鬼のようになってしまう。それでも人間というもの全般に対して、漠然としていてもいいから、「総じて善である」という前提を信じていたいと思う。
それを可能とするのは、人は皆仏の子だと説く仏教か、あるいは神の元の平等を謳うキリスト教ということになる。
私の場合は洗礼は受けていないけれど、個人的なルーツのあるキリスト教に親しみたいという想いが強くなる。
どんなに困難を伴う状況であれ、せめてその自分自身にかすかにあるかもしれない善性を守りたいと思うし、あるいは人の善性を信じていたい。
そういう時に思い出す一作の小説がある。コーマック・マッカーシー『ザ・ロード』だ。
核戦争後の終末世界を旅する父子が、人食いや非道な行為が行われる世界にあって、「火を運ぶ」という言葉に象徴されるように、人間としての尊厳と善性を守り抜こうとする小説で、私はもう二、三度ほど読み返している。
極めてキリスト教的色合いの濃い作品だと云えるかもしれない。
極限状態にあってなお、ヒューマニズムを全うしようとする父子の姿には心を打たれずにはいられないし、今まさに読むに値する小説だと思う。
人間の魂の崇高さを私は信じていたいし、また及ばずながらも自分もできるだけそうありたいと思う。
その指向性とキリスト教とはおそらく近しくて、やはり洗礼を受けたいという気持ちも頭をもたげるのだけれど、なかなかコロナ禍もあり、また持病もあって叶いそうにないので、せめて心のうちでそっと祈り、聖書やキリスト教関連書籍を読んで、できるだけ自分の中に「善きもの」の割合を増やしておきたいと願う。
おそらくそのように自分をできうる限り律することでしか、この適応障害という病から逃れることはできないのだろうと思う。
無論、私もたった一人の人間に過ぎないのだから、善性と云っても差し出せる範囲は限られているのだけれど、その限られた範囲の中ででも、自分自身を高めていきたいと思う。
この記事は数年前にCDを買ったこちらのアルバムを聴きながら書いた。
グレゴリオ聖歌は出身校で歌っていたので懐かしさもある。
自分自身は弱く愚かな存在に過ぎないけれど、それでも聖歌を歌いながら亡くなっていった先輩方に顔向けできるように、できるだけ顔を上げて生きていきたい。