創作・読書トピックにお邪魔していました。
お読みくださった皆様、評価してくださった皆様、ありがとうございました。
引き続き当ブログをよろしくお願いいたします。
NHK短歌にふたたび投稿した。
今日はすっかり弱っていて、さまざまな世の中のことで頭がいっぱいになってしまい、そのつらさに引きずられそうになってしまった。
しかしこうして投稿ができる場があるというのは、本当にありがたいことだと思う。
それもネット投稿できるありがたさは持病のある身にとってはひとしおで、今後ともコンスタントに投稿をつづけていきたい。
昨夜はNHK短歌4月号を読んだ。
江戸雪の短歌が良かった。口語ながらもポエジーを感じる軽やかな調べが魅力的だと感じた。
その他には馬場あき子の対談で、古典を読むべしとの言葉が深く心に刺さった。
源氏物語も平家物語も軽くしか触れられていないので、やはりしっかりと読まねばならないという思いを新たにした。
また居酒屋たむらに寄せられたメッセージは、歌人は誰しも同じ悩みを持っているのだなと親近感が湧いた。
プロの歌人となってもやっていくのは険しい道のりなのだと思うと途方もない気持ちになるけれど、それでも短歌が好きだという気持ちを大切にしていきたい。
こうして気軽に読める詩歌雑誌の存在はやはりありがたい。
ここのところ読書はしているものの、おかゆのような本しか読めずにいるのが残念だ。
それでも詩歌雑誌を読むと、さまざまな詩歌集との出会いがあり、あるいはそこに寄稿している方々との出会いもあって、新鮮な気持ちになれる。
世の中の状況が芳しくなくて、つらい気持ちはあるけれど、今は世の中の全ての人間がほとんど等しくつらい状況に置かれているのだと思うようにしたい。それでもつらいと思わずにはいられないけれど、それはグッと堪えておく。
耐え難い世の中の状況を云い訳にして、創作の手を休めるということは私はしたくない。
さらに朝には吉増剛造『詩とは何か』を読み進めた。
詩とはプリミティブな状態から立ち上がろうとする道程を指すのではないかと読んでいてようやく腑に落ちた気がして、それはここ数日再び詩を書きあぐねている私にとっては強く印象に残った。
私にとって詩は歌で、その歌の呼び声を聴いて文字に起こすことが詩を書くことだと思っているのだけれど、吉増氏にとって詩とは言葉を発するに際して押し黙ってしまう、あるいは発語に困難をきたすところからはじまっているのだという言葉には、さまざまな深い意味が込められているのだと思う。
吉増氏の詩はその発語の過程を表したものだと云う。割注に書かれた言葉たちとともに詩がひとつの作品として立ち上がっていくダイナミズムを強く感じる作風で、その背景にはこのような想いがあるのかと思わずにはいられない。
詩を書くこと、そのこと自体にさまざまなレイヤーがあり、さまざまな態度やスタンスがあるのだと思う。そのいずれが妥当かということについて、私は判断する力を持ち得ないのだけれど、それでもこの『詩とは何か』を通じて吉増氏が言葉を絞り出すようにして、詩という細道に分け入っていく過程は、やはり読んでいて知的興奮をもたらされる。
おそらく私にとって間違いなく今年のベスト本入りを果たすだろうと思う。
また朝にWINDSORの桜のトリオが届いた。
まだ余震が怖いので、なかなか使うのもおっかなびっくりという感じになりそうだけれど、できれば週末はこのティーカップでお茶ができればと思う。