ANIRON

ひとりごと日記

2022.03.28 #1 花見と読書と

創作・読書トピックにお邪魔していました。

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お読みくださった皆様、評価してくださった皆様、ありがとうございました。

引き続き当ブログをよろしくお願いいたします。

 

さて、27日は主人が共通の友人である男友達と花見へ出かけて行って、私はひとりで家で過ごした。

男同士でしか語らえないこともあるだろうと思ったし、特にここのところ私は体調を崩していて迷惑をかけてしまいかねなかったので遠慮した。

それでもやはり花見をしたいという気持ちがあって、今日は体調不良を押してひとりで出かけることにした。

ちょうど桜も満開の見頃を迎えていたこともあり、また図書館にも予約していた資料を受け取りにいかねばならなかった。

なんとか身支度をして、出かけてみると思ったよりも歩けそうで、いつもよりも少し速いペースで歩いた。

道中、何度か立ち止まって写真を撮った。

途中、図書館に行く前に、義実家の宗旨のお寺に立ち寄って、そこでお参りをして写真を撮ったのだけれど、あいにくと最寄り駅ということもあり、身バレを防ぐために載せずにおく。

ただ境内は世の中の騒がしさとは打って変わった静けさを保っていて、それだけで心身が引き締まる思いがした。

世界平和と家内安全を祈願して、図書館へ立ち寄った。

借りたのはこちら。

このうち山中智恵子『玲瓏之記』と写真集は最寄りの図書館で借りて、バーバラ・クーニーの絵本『エミリー』と、『葛原妙子歌集』、『ことばと永遠 エミリー・ディキンソンの世界創造』は予約をして取り寄せた。

それからコージーコーナーに立ち寄って、マドレーヌを買った。

主人とのお茶の時間にはあまり甘いものを摂らないのだけれど、このマドレーヌはちょっとした贅沢として時々楽しんでいる。

本当は花屋でスイートピーもお迎えしたかったのだけれど、このお花がまだ元気なので諦めた。

スイートピーは毎年買うようにしているのに、今年はどうにも買えそうになくて残念だ。

そうして帰宅して、バーバラ・クーニーの絵本『エミリー』と、桜の写真集を読んだ。

図書館本。桜が満開となった2022年3月28日、花見を終えて、余韻に浸りたくて借りる。読んでみると、奈良の古代氏族の葛城氏のエピソードから、『智恵子抄』まで、さまざまな日本の歴史や文学とともに桜の絶景が紹介されており、そのひとつひとつについてもっと知りたいと好奇心を掻き立てられた。中将姫伝説についてはあまり詳しくなく、折口信夫の『死者の書』も挫折してしまったのだけど、興味が湧いてくる。
またここのところ持病が同じということもあり、高村智恵子に興味がふたたび出てきた。私はちいちいさんと呼んでいる。
できれば高村光太郎・智恵子にまつわる著作ももっと読んでいきたい。

エミリー・ディキンソンをテーマに扱った絵本ということで、幼少期から好きだったのだけど、エミリーにシンパシーを感じる日々が続いているので手に取った。
“ママがピアノをひいているのをきいてごらん。おなじ曲を、なんどもなんども練習しているうちに、あるとき、ふしぎなことがおこって、その曲がいきもののように呼吸しはじめる。きいている人はぞくぞくっとする。口ではうまく説明できない、ふしぎななぞだ。それとおなじことをことばがするとき、それを詩というんだよ。”
まさにこれが私にとっての詩なのだと思う。
繰り返し奏でられる音楽から生まれる突然変異の変奏と、花が開くように表れる世界の不可思議さ。そうしたものを詩を通じて歌っていきたい。

創作をすることがなかなかままならない日々が続いていて、特に詩に関してはこの一週間まともに作れていないのだけれど、それでもこうして自分自身が詩と向き合う時間も大切にしたいと思う。

エミリー・ディキンソンの詩を通じて、改めて自分の詩に対するスタンスというものを固めていきたいと願っているし、また歌集を読むことを通じて、自分自身の短歌に対する見方や、態度を少しずつでも築いていきたい。

今は実作も大切ではあるけれど、インプットをすることが楽しいと感じられる期間でもあるらしく、今月は現時点で16冊の本を読んでいる。

その多くは詩歌雑誌ではあるのだけれど、そうして手探りでもいいから詩歌と向き合う時間を作れたことは、まずは評価してもいいのではないかと思う。

実のところ、私は作ってばかりいて、なかなか詩歌を読む量をこなせていないのがとてもコンプレックスだったのだけれど、要は読めばいいだけの話であって、それはそう難しいことではない。

ただ、量をこなすにしても、短歌や詩を見る目も同時に培っていかなければ、単なる上滑りのエピゴーネンに終わってしまうのだろうと思う。

そうではなく、やはり自分自身の切実なところから生まれてくる歌を大切にしたいし、そのためにも技術を養うべく、詩歌を読みつづけていきたい。

ここ数日、主人と話していて、やはり私はまだ小説が書きたいと思っているのではないかと思い悩む日がつづいてた。

昔と違って、今は構造主義的なプロットが小説には必要なのだということも理解できるし、心からその必要性を実感することができるようになってきた。それは詩歌という別の道から小説を捉え直したからこそできたことでもあった。

だから今ならまた違うアプローチで小説が書けるかもしれないとも思う。

しかし、体調上のキャパシティから考えても、十全に余力があるわけではないし、技術的にも拙いから小説講座で挫折してしまったのだろうと思う。

もちろん悔しい思いもあるけれど、それでも今は詩歌の道を進むと覚悟を決めたから、それに向かって必死に食らいつくようにして詩歌を読み、手探りでもいいから進んでいきたい。