ANIRON

ひとりごと日記

2022.04.10 大津仁昭『天使の課題』を読む

ここのところなかなか本を読めずにいたのだけれど、昨夜大津仁昭『天使の課題』を読み終えた。

角川短歌3月号で紹介されていて気になったので手に取った。

青春、恋、生と死を超越してゆく思想、そして姉という幻想。そのいずれもがフィクションだとあとがきで大津は云う。前衛短歌というものが現代においてなお存在するのであれば、大津仁昭の短歌はまさに前衛と云っていいのだろう。
耽美的かつ幻想的でいて、同時にひどく世俗的でもある作風は、どこかアニメチックなイメージを彷彿とさせる。
おそらく作者はサブカルチャーと不可分なところで生きてきた人間なのだろうと推測する。
詩人で云えば岩倉文也などがこの系譜に該当するけれど、いずれも方向性に目新しさがないところがやや物足りなかった。

 

ちなみに有名な橄欖追放でもこの著者は取り上げられており、以下のように書かれている。

petalismos.net

谷岡は先の引用に続けて、「〈私〉の一回性の現実から自由になろうとする試みが、逆に作者自身の内面世界を雄弁に語り、他ならぬ〈私〉の一回性の現実と、まざまざと直面せざるを得ない結果をもたらしている」という逆説を指摘している。そうだろうか。私には大津は少しばかり現実からの離脱が過ぎて、あの世の方に行き過ぎているように感じられる。正直言って幽霊ばかりが出て来る『霊人』を通読するのはつらい。また幽体となって現実から浮遊し、ややもすれば「あちら」に彷徨い出しそうな〈私〉に、撃つべき現実を逆照射する力が残っているだろうか。

 「現実からの想像力による離脱」ではなく、「現実に繋ぎ留められている〈私〉の深化」という方略もある。つまり「足もとを掘れ」である。なぜなら現実からの離脱には限度というものがないからだ。何ならば星々のかなたにまで飛翔して、二度と戻って来ないことだってできる。短歌や俳句という短詩型文学が、〈私〉という主体による認識の更新によって現実に新たな光を当てるという側面を持っている以上、そうそう現実を遊離することはできないのである。近松門左衛門は芸術制作の勘どころは「虚実皮膜 (ひにく)の間」だと述べた。人の心を動かすのは、100%の作り事でもなく事実べったりでもなく、その微妙な中間点であり、皮と肉のあいだのようなものだとの意味である。短歌に即して言うならば、現実そのもの (くそリアリズム) ではなく、極端な現実遊離 (放恣な空想) でもなく、地上15cmくらいに浮き上がった視点がよろしいということになる。この点から見ると大津はちょっと行き過ぎているように思えるのだが、谷岡も書いているように最近結婚して新生活に踏み出した大津には、これから新しい展開が待ち受けているのかもしれない。

 

手厳しい指摘だと感じる。

「私」というものを歌にいかに詠み込むのか、あるいはいかに距離を取るのかということについてはさまざまな議論があることだと思うけれども、やはり離れすぎている短歌は総じて似通ってしまうのかもしれない。

Twitterを表立って運営していた時にも似たような作風の短歌にはそれなりに出会ったし、そのいずれもが拙いと感じるものではあったけれど、その上位互換としてこの大津の短歌があるのだと私の目には映ってしまう。

姉という幻想は男性特有のもので、私の場合は藤原月彦よろしく「亡き兄」という幻想を幼少期から抱き続けてきたけれど、いずれにせよそう目新しいものではない。

それを詠み込んでいた時期も過ぎて、今私はもっぱら写生を重んじる短歌を作ってはいるけれど、やはりそこには統合失調症という病特有の幻視も加わってくる。

そのなんとも白黒つけがたい、現実と空想という二つの間のグラデーションの狭間から短歌が生まれてくるのだと思っている。

写生を重んじてはいても、やはりどこか空想の色合いは混じってくる。その匙加減はさまざまにあるにせよ、空想に傾き過ぎれば拙作「ヒュプノスの夏」のようになるし、写生に傾けば最近作っている歌のようになる。

booth.pm

note.com

この恋も忘れてしまう錠剤は不老長寿の薬となって

「しにたみのおさしみ」きみに告げたいの「おさしみ」としか云えないままで

ハルシャギク世界の果てをも埋め尽くし燔祭の焰を待つ初夏

ヒュプノスの恩寵のみに包まれて副作用の希死念慮来る

私自身はどちらかというと幻視の色合いの濃い歌を好むけれども、それでもやはり核となる部分には写生がなければならないとも思う。

それは佐藤弓生も歌集『モーヴ色のあめふる』で語っているところだ。

「幻想は“ほんとうのこと”の種なしには生まれません。「ただロマンチシズムとリアリズムとは、主観の発想に関するところの、表現の様式がちがふのである」と萩原朔太郎は述べています。表象はどうであれ、詩歌は心の真実のためにあると考えます

前衛短歌をこうして読みながらも、やはりどこかで前衛短歌に対する拒否感は抱いてしまうことを否めない。

作品として自立し、成熟しているのならばそれでいいけれど、そうとは云い切れるだけの力がなければ、やはり写生という意識をないがしろにすべきではないのだと思う。