フィジカルメンタルともに体調が悪く、主人が「今日は家事を休んでいいよ。ゲームでもしてて」と云うので、言葉に甘えてスターデューバレーをプレイしていた。
他にはお茶の準備をしたのと、夜の家事をいくつかこなしたぐらいで、ほとんど何もしていない。これでいいのだろうか。
スターデューバレーのプレイ日記は順次こちらで公開していきたい。
お茶は三度いただいた。
カップとプレートはバーレイのピンクアジアティックフェザンツ。
嬉野茶「うれしのみどり」
夫婦ふたりでゲームをプレイしながらだらだらとお茶をいただくのはなかなか楽しかった。
それから夜の家事をして、一日が終わってしまった。
ここのところ創作意欲がガクンと落ちていて、まともに何もできていない。
精神的にも肉体的にも体調が悪く、それを云い訳にはするまいと思っていても、どうしても引っ越しの不安感や風邪のような不調に引きずられてしまう。
精神的にも肉体的にも拒食気味で、自分の中に何かをインプットする気力もないし、ましてやフィクションに触れるゆとりがない。
ウクライナ情勢のニュースはここのところ避けるようにしているけれど、それでもやはり完全に遮断するというわけにもいかず、ここのところ経済関係の記事を朝日新聞デジタルを通じてよく読むようになった。
コロナ禍で小説を読めなくなって久しいけれど、いよいよそれが高じてきているのかもしれない。
したがってホラー小説を書くというビジョンもまだまだ手が届きそうにない。
今はまだ傷が癒えるのを待つしかない状況だし、その状況の中で自分自身ができることをやっていくしかないのだと思う。
小説の存在によって詩歌という価値が私の中で揺らいでしまっていることも一つの要因なのだろうけれど、不調になればなるほど私にとって詩歌の存在は切実なものとなる。
その切実さがここ二週間の間は体感として感じられていなかったのかもしれない。
吉増剛造『詩とは何か』において盛んに説かれていたのは、「啞性(おしせい)」という言葉だった。
発語するに際して押し黙ってしまう、沈黙をやぶって言葉を発する前の段階で逡巡し、苦悩し、痛苦すら感じる。そこから詩が生まれると吉増は説いていた。
その痛苦を今まさに私は感じていて、これを承認欲求や「何者かになりたい」という安易な欲に駆られて、軽薄な詩を書かないようにしなければならないのだと思う。
むしろそこに深く根を下ろし、じっと耐えて詩の呼び声を待つこと。これが私にとって詩を書くに至る起点となることを自覚しておきたい。