ANIRON

ひとりごと日記

2022.04.16 #2 NHK「首都圏情報ネタドリ!」 木下龍也特集から自分の短歌を考える

夜になって適応障害の症状が重くなり、自分には生きている価値がないという思いが頭から離れなくなってしまった。

主人は今帰省していて、少なくとも私のようなお荷物からは解放されている。そのまま帰りたくないと思うかもしれないし、私から解放されて随分と楽になっているのではないかと思うと、自責感が強くなり、生きていてもしょうがないと思い至った。

ちなみに精神障害に強い偏見を持っている義父は、帰省して主人と話すたびにこれ見よがしに「お前も大変だな」と云う。

大事な御子息は十年選手のメンヘラの私と結婚してくださった上に、毎日大変な思いをすることになってしまって、本当に申し訳ありません。

そういうときには詩を書くしかないので二篇書いた。

二篇のうち、一篇は手直しをすればなんとかモノになりそうなので、ずっと出しそびれているココア共和国に投稿するかもしれない。

ただいかんせんいつもよりも有機的な色合いが濃いというか、エロティシズムを感じさせる作品なので、ココア共和国のお家柄とは合わないかもしれない。いずれにせよもう少し数を揃えたい。

そうしてお茶を淹れるゆとりもなく30分ほどぼーっとして、ひたすら脳内で「お前なんかいなくていいよ」という声が延々とループするのを聞いていた。

主人に云われたわけではないし、私ひとりで勝手に落ち込んでいるだけなのだけれど、このまま増幅していくとさすがによろしくない。統合失調症の陽性症状がぶり返すとなると、もう私の手には負えなくなる。

昔、テレビドラマの「大草原の小さな家」をたまたま観ていて、父親と娘たちは外泊先で楽しく過ごしているのに、ひとり家に残った母親だけ鬱々として足の傷口が気になって仕方がなく、足を斧で切り落とした方がいいのではないかと思い詰めるという場面があり、幼心に大変恐ろしかったのだけれど、自分自身もそうなってしまったのかと思うと天を仰ぎたくなる。

とにかくこの状況をなんとかしないと、あとはもう死ぬだけだと思って、かつては毎週末ミニシアターに足繁く通っていたシネフィルの実妹が、今はコロナ禍ということもあって、配信サービスでさまざまな映画を観ていると話していたことを思い出した。

独り身の彼女ならではの寂しさの飼い慣らし方なのだろうと思い、私自身はあまり一人で動画などは観ないのだけれど、録画していたNHKの「首都圏情報ネタドリ!」 の歌人・木下龍也特集を観ることにした。

www.nhk.jp

今、歌集としては異例の大ヒット、SNSでも注目を集める短歌がある。歌人・木下龍也さんの「あなたのための短歌」。メールなどでお題を投稿すると、それを元に木下さんがオーダーメードの短歌を詠んでくれるというものだ。5年前から始まった取り組みだが、コロナ禍の今、人生の悩みをお題として寄せる人が増えているという。なぜ、そうした思いを短歌に託すのか。依頼者たちの姿から、コロナ禍を生きる人々の心を見つめていく。

ここのところ私自身は短歌をなかなか詠めていなくて、その理由の一つとして、このままの歌風で短歌を詠みつづけることは、本当にやりたいことではないのかもしれないという思いがあったことが挙げられる。

日常詠が良いものだとどうしても思えない節があり、私が作りたいのは結局のところもっと高踏的な短歌なのだという思いがあったのは確かなことだった。

しかし評価をいただいているのは日常詠、あるいは療養短歌で、そのもどかしさから逃れられず、ここのところ短歌と少し距離を置いていた。

しかし、こうして番組を視聴してみると、短歌を作る上での必然性や切実さ、生活や人生と切り離せないところから生まれてくる短歌の奥行きの深さを改めて感じるとともに、どこか「若くして成功した歌人」と斜めに捉えていた木下氏には、コピーライターの夢を絶たれるという挫折を経て、こうして短歌の世界へと入ったという切実な事情があったのだということがわかった。

私自身もホラー小説を書きたいという思いはまだ確かに持ってはいても、持病により、それを今すぐに書けるという状況にはない。作家という夢は半ば諦めかけていて、かねてから作家になれと応援してくれている周囲に対しても顔向けできないという気持ちがある。

そのような状況で短歌、あるいは詩歌というジャンルに居場所を見出したことに、どれほどの切実さがあるのだろうと自らに問うとき、やはり療養詩歌というジャンルから離れることはできないのではないかと思い至る。

短歌を詠めないのは、私自身が短歌のことを信頼できていなかったからなのかもしれない。

詩は唯一無二の友だと思っているけれど、短歌に対しては秘密のクローゼットという感じで、言葉にならない言葉をなんとか三十一文字にして詠んでいる。

それが私にとっての短歌を詠む必然性なのだとしたら、今はその必然性を重んじたいし、これからも細々と短歌を詠みつづけたい。