引越しのための片づけに追われた一日だった。
詳しくはまた別途こちらのブログに書きたい。
片づけを少しばかり終えて消耗してしまい、主人に布団で休むようにと云われて、横になって休むのが苦手なのでじっとしていると、さらにお小言を云われたので仕方なく休むことにした。
昼間のうちに主人につづいて洗濯したシーツと枕カバーがすっきりとして気持ちが良く、ごろごろしながら、7度目の佳作として拙作「春嵐」を採っていただいたココア共和国5月号の傑作集を読むことにした。
そこに私の居場所はない、というのが真っ先に感じたことで、おそらくこのまま投稿を続けても傑作集には入れないだろうなとはっきりとわかった。
詩風が全く違うのだ。
より自分に近しいところで詩を書く必要があり、そして私はそうするつもりはない。
今年のベスト本入り間違いなしの吉増剛造『詩とは何か』において、「私」というものについて吉増は以下のように説いていた。
詩作とか芸術行為というのは、「わたし」が主役ではないのです。自分で気がつかないことを、ふっと、……そんな仕草の中にこそ、おそらく「詩」というものは、少しだけ感じられるものでしょう。
この「私」の扱いが詩の分岐点となるのだろうけれど、私個人はあくまでも出発点としては「私」に根ざしながらも、やはりそこに留まっているわけにはいかないと感じる。「私」から出て、読者の元へと届かねばならない。
吉増は詩において読者というものを想定すること自体無理があると説いていた。
しかし自分が読者であることを忘れることが創作なのです。ですから読者なんていうものはもうどうでもいいというのも割合正論ではないかと思うのです。
(…)
括弧つきの読者というのはいわば一つの制度というか決まりみたいなことにすぎません。そこを外さないと、「本当」には、やはり辿り着けないのです。
私はそうは思わない。たとえ一人きりであっても、読者がいなければ、やはり作品としては成立し得ない。
ただそのたった一人の読者に届けるために詩を書くのであれば、「私」という殻に固く閉じこもるのではなく、「私」から外の世界へと昇華される必要がある。もっとも「私」に根ざさなければ、それはそれで空疎な詩となるだろうけれど。
この辺りの塩梅が難しい。「私」に拠るのであればココア共和国に留まっていてもいいのだろうけれど、私の詩は「私」に留まるつもりはない。飛翔したいし、昇華したい。そこに創作の救いがあると私は信じている。
やはりココア共和国を出て、新たな道筋を模索しなければならないと強く感じる。
ひとまず新居に引っ越したら、ユリイカと現代詩手帖への投稿をはじめたい。
おそらく困難な道のりになるだろうと思う。それでも一年は粘って投稿をつづけたい。
非公開にしている詩もまだまだたくさんあり、「これはココア共和国向けではないな」と思ったものも多数ある。まずはそれらから少しずつ投稿を重ねていきたい。