ANIRON

ひとりごと日記

2022.05.06 石原吉郎を読む

フィジカルの調子を崩して内科を受診したところ、懸念していた大病ではないことが分かったのだけれど、それにしても胃腸の調子がすぐれない。

「検査をしますか?」と訊かれて、大腸内視鏡検査を受ける勇気が出ずに、「ひとまず様子を見ます」と答えて、整腸剤を出してもらって、受診を終えた。

食欲がないのも、精神的というよりは肉体的な問題に起因しているのかもしれない。

病院で石原吉郎詩文集の詩のパートを読んだ。

さびしいと いま

 

さびしいと いま

いったろう ひげだらけの

その土塀にぴったり

おしつけたその背の

その すぐうしろで

さびしいと いま

いったろう

そこだけが けものの

腹のようにあたたかく

手ばなしの影ばかりが

せつなくおりかさなって

いるあたりで

背なかあわせの 奇妙な

にくしみのあいだで

たしかに さびしいと

いったやつがいて

たしかに それを

聞いたやつがいるのだ

(…)

 

石原吉郎「さびしいと いま」『石原吉郎詩文集』講談社、2005年、pp37-38

平易な表現だからこそ核心を突くような鋭さを持ち、同時に深い悲しみをたたえている。

石原吉郎旧ソ連の25年に及ぶ強制労働を経験した詩人で、その詩にも重々しい空気が垂れ込めていて、詩を書くということに、これほどの必然性を持たせなければ、この詩は成立しないのだと思うと、姿勢をただされるような思いがした。

彼の詩は吉増剛造『詩とは何か』にも紹介されていて、ちょうどそれより少し前にこの詩文集を入手していたのでタイムリーだった。

石原の詩とはまた異なる文脈ではあるけれど、吉増の『詩とは何か』において核心に迫るような記述があったので引用をしておく。

経験をそのまま「写して」も、むろん詩にはなりませんけれども、まったく実存が揺り動かされるような経験がないところから「ほんものの」詩が立ち現れることはやはりない、……わたくしのような者が申し上げますのはいささか口幅ったいような気もいたしますけれども、ここにはやはり一点の、「詩を書く」ということにおきます「真理」の場があるような気がいたしております。

──吉増剛造『詩とは何か』講談社、2021年、p67

この「真理」を私も詩において求めつづけている。

石原吉郎の詩集を手に取った背景には、自分自身の不確かな病というものがあって、その痛苦と、おそらく長生きはできないだろうという諦念にも似た感情が渦巻いていたことから、今だから読める詩人だろうということで選んだのだった。

これまで読んできた詩の中でももっとも私の心の奥に触れるような詩ばかりで、まとまった形で詩を読みたくなってしまった。

できれば現代詩文庫の詩集を入手したい。

それにしても、私の詩のどれほどがこれほどの力を持っているだろうかと自問自答してしまう。悲しみに、あるいは痛苦に根ざしてはいても、やはりどこか虚ろな表現に留まってしまう気がしてならない。それはなぜなのだろうか。

石原吉郎の詩を読んでいて感じたことは、石原の詩には詩へと至る道行がしっかりと丹念に描かれているということだった。

詩とは道行のことなのだと吉増剛造は『詩とは何か』で語っている。

ハイデガーが、特に一般に「後期」と呼ばれる時期の著作についてですけれど、「道であって作品ではない」と言ったことがありましたよね。ただただたどることしかなくて、ゴールはない。そういう、何か「道行き」みたいなもの。

(…)

この場合にも、「道」というのは「作品」というゴールに至るためのたんなる手段ではないのですね。「道」をたどること、その行為そのものの中にしか、「ほんとう」は貌を顕してはくれない。

──吉増剛造『詩とは何か』講談社、2021年、p241

この「道行」というものを私はないがしろにしてきたのかもしれないと、石原吉郎の詩を読んでいてようやく腑に落ちたのだった。

私は吉増の『詩とは何か』に食いつくようにして読んできたけれど、その意味がようやくほんの少しばかりわかってきた気がする。

やはりさまざまな詩人の詩を読み、実際に頭を使って考え、あるいは再読して熟考しながら、なんとか自分の詩をアップデートさせていきたい。