病状は相変わらず改善せず、37℃台の熱が続いている。
原因もよくわからず、心が折れそうになるけれど、ココア共和国に8度目の入国を果たすことができたらしい。嘉村詩穂名義の拙作「吹き荒ぶ嵐のいつわりの海の底にて」が佳作として掲載していただけることになった。
表紙がピアノの鍵盤ということで可愛らしいのがうれしい。
発売は28日なので、まだ発売されていないのだけれど、電子版に掲載される予定なので今から楽しみにしている。
現在は予約注文受付中なのでよろしくお願いします。
掲載していただく詩のことは忘れかけていたのだけれど、改めて読み返してみると、やはりウクライナ情勢以降の「やり場のない悲しみや痛み」を、できるだけその人固有のものとして扱いたいという気持ちがあるのだなと思った。
私自身にもそうした悲しみや痛みはあるし、実はこの一つ手前の記事で書こうか迷ったのだけれど、どうしてもセンシティブな話題になるので書くことができず、下書き保存してしまった。
ただおそらく人間というものは、他の人が想像する以上の痛みや悲しみを感じながら生きていて、それは帰省した折に伯父と話した際にも感じたことだったけれども、長年にわたって「云われて辛かった一言」を胸に抱きながら、それでも生きているのだなと思い知らされたのだった。
その一言を開陳できる相手がいるというのは、それだけでも幸せなことなのかもしれないと思いながらも、自分自身は誰にも云えずにいる。
その種を詩として昇華させている節がないわけではないのだけれど、それは個々の作品を読んだ方が感じてくださればいいのであって、私がことさらに主張するべきものではない。
昨日も書いた通り、感想をいただいたとしても、それは読者の方が感じたことが全てであって、創作者が何を云おうと、何を意図していようと、全く関わりのないことなのだと思う。
大学院で文学を専攻していた主人からテキスト論というものを教えてもらって、それに則れば著者の意図などどうでもよろしいということになる。
私自身も創作する立場の人間として、創作に向かう意気込みを書くことはあるけれど、自分の個々の作品についてはあまり多くの言葉を割かないようにしている。それは作品が読者のものであるからであって、もはや作品として世に出た時点で自分のものではないからだ。
読者の想像する余地を奪ってしまっては元も子もない。
病のため、ここのところ思うように創作ができず、不全感が募る一方だったのだけれど、父に報告をしたところ、「吹き荒ぶ嵐のいつわりの海の底にて」というタイトルについて以下のような会話を交わした。
大学で記紀神話を専攻していたので、記紀の中でも特に好きな、海幸彦・山幸彦のエピソードをモティーフとした、青木繁「わだつみのいろこの宮」を彷彿とさせると評価してもらえたことはとても嬉しかった。
この絵はどこかで見覚えがあるなと思ったら、幼少期に原画を観たことがあるらしい。
母からは「気持ち悪い」と旧劇のアスカのような評価を下される私の詩だけれど、父はサイモン&ガーファンクルをLP時代から愛聴していて、私もそのLPの洗礼を受けて育ったので、相通じる感性があるのかもしれない。
いずれにせよ読者の想像力というものは、作者の意図を超えたところで大きな広がりを見せるものでもあり、その広がった想像の翼をぜひとも大切にしていただきたいと思う。