ANIRON

ひとりごと日記

2022.07.25 ウクライナ詠を考える

野志保目当てでネット書店で買った歌誌『月光』73号が届いた。

前述の通り夕方までほぼ死んでいたので、再起するべく手近に読める雑誌を読もうと思って手に取ったのだけれど、考え込んでしまう短歌が多かった。

まず目についたのは大和志保の「象られる ⅩⅦ 海にいるのは/狂女について」。

死ぬまでを父の娘と呼ばれきてもの言わぬ屍(し)のあしうらの白

ははそはの母に揮える鉞(まさかり)の下北半島かたちほどけて

そのなかにきちがいもいる包みこめ家族写真の金の額縁

川辺に揺れる葦(カノン)のように母の舌わたしを気違いと呼ぶ

かりそめの姉と悪霊写りこむ瞠(みひら)いているわれら清らに

逸れてゆく轍ふたすじまぼろしの母の揺りかごまでの距離(ディスタンス)を

母の血にはじまる家族という血縁と、その呪しさを歌う短歌の数々はフェミニズム短歌の一群に数えられるのだろうけれど、今現在毒親という問題に直面している私にとっては、今まさに読みたいと思わせる短歌の数々だった。

病という問題を直接的な表現で歌いながら、どこか距離を感じさせるのは美的な表現ゆえのことで、こうした可能性の模索もしていきたいと思わせる短歌群だった。

また今回の『月光』で心惹かれたのは、冒頭の晴山生菜「本の象 立松和平光の雨』に」に並ぶ、肉体言語とも云うべき短歌の数々で、生々しい肉体という感覚が短歌の中から立ち上ってくるように思われて、見事だと感じた。

ただ、ウクライナ詠については多分に疑問を感じざるを得なかったので、思考メモとして書いておきたい。

戦いへ心蝕みつき走る  罪深いもの人の生なり

権力を持ちし者の饗宴は 春の名残りの花踏み倒し

逃げ惑う子らの夢も破壊されたましい深く血の花が咲く

生まれてきてわずかな命なぜ奪う人と人との戦醜く

藤岡巧「壊されゆくもの」

ここにはあまりにも当事者性が欠けていると感じる。どこに視点を置いているのかよくわからないのだけれど、自らが天の如く裁くものとなって戦争を断罪するのは、理解しがたいながら反戦を歌う意義はあると思うものの、戦争の被害者の心情をヒロイックに歌い上げる姿勢には疑問を感じざるを得ない。

戦争は絶対悪で、これは断じて許されるべきではない。ただ、これは想像力の過剰な氾濫ではないかと思ってしまうのだ。言葉を奪われつづけている戦争被害の当事者に代わって、あたかも我が身我が事のように酔いしれて悲嘆することの重みを考えたことはあるのだろうか。

私は被爆地出身者として、原爆に関する表現はまだ自分という人間の手に余るし、またそれを扱うには慎重を期さなければならないと考えてきた。

そこには当事者性はないし、私にとって被爆者の語り部の方から被爆体験を聞いた幼少期の記憶は生々しく残っているけれど、それでもそれを語ることには大きな責任が伴うことを嫌というほど感じてきた。当事者である語り部の方々が、身を引き裂かれるような思いで戦争体験を語る壇上に立っているということを、何度も耳にしていたためだ。

そう簡単に語り得ないものを、我が身に引き寄せて語ろうとするとき、そこに全くの奢りがないと云えば、やはり嘘になるのではないかと思う。

少なくとも日本は今のところ戦争状態には陥っておらず、安全は確保されている。その場からウクライナ情勢を詠むことのセンシティブな問題について、考えずにはいられない。

これと同種の問題は、私の場合は震災のことを語ることにもつながっていて、私は努めて震災のことを多くは語るまいとしてきた。

それは私が長崎に帰省していたために被災を経験していないという一点に尽きるし、あの2011年に日本中があたかも自らが当事者であるかのように振る舞う言説が飛び交っていたのを、大変腹立たしくも思っていたし、自分はその波には呑まれまいと極力距離を置いていた。

今回のウクライナ詠について、無論反戦の意を唱えることは必要で、それに対して異論はないけれど、かといって朝日歌壇のようにテレビの報道映像をそのまま切り取って歌にしたものも、今回のように、想像力のみを用いて自らの憤りとともに発露させようとしたものも、私は理解しがたい。

私にできることは、あくまでも「私」という人間から離れずに、「私」という人間の延長線上に戦争が今現在起こっていて、そこで多くの無辜の人々が死に至らしめられているという現実を「私」の視点から詠むことであって、「私」を超越して誰かを裁く気にはなれないし、「私」以上の悲しみを歌うことは、やはりできないのではないかと思う。

その「私」の限界を十全に理解すべきだと私は考えているし、その「私」を超えたところで語る時には、やはり十分に被害者の痛みに向き合うべきで、そこに安易で無責任な想像を用いるべきではないと思う。

それは私がさまざまな困難に直面している精神障害の当事者であるということにもつながっていて、おそらく私以外の誰かが、私の精神的な痛みや悲しみについて、あたかも分かりきったような口を叩いたら、その人とは到底付き合いたくないと思うに違いない。

そうしたその人固有の痛みや苦しみ、悲しみを、できるだけ丁寧に、その人自身のものとして扱うことは、おそらく今とても重要なことなのだろうと思う。そうすることでしか、人は人を尊重することはできないのではないか。