ここのところ日中は調子が悪くてまともに動けない。
今日も14時ごろまでダウンしていて、そこからようやく起き出したという有様で、夏という季節はつくづく鬼門だなと思う。
昨年はさまざまに短歌を詠んだけれど、今は諸事情あって停滞してしまっている。
もっと歌誌・歌集を読んでモチベーションを上げていきたい。
今年はもっぱら詩に入れ込んでいるので、夕方になって詩を一篇書いた。
まだまだ精度が低い。もっとできうる限りの試行錯誤をしたいと思うし、今感じている複雑な感情を受け止めてくれる器は、おそらく詩歌以外にはない。
こうした時に案外短歌を詠むとすんなりと表現できたりするもので、短歌とは私にとってやはりエモーションの器だと改めて思う。
上篠翔『エモーショナルきりん大全』はそうした意味でも、私の今のスタンスに近しい歌集なのかもしれない。すでに一読しているけれど、再読したい。
『ねむらない樹 vol.9』にも彼の新作短歌が掲載されるというので、これから注文したいと考えている。
そうして少しずつでも、あるいは多少無理をしてでも前を向かないと、親という重力に引っ張られてしまいそうになる。
現に昼間はずっと親のことを考えていて、やはり連絡できないつらさや、故郷にもう戻れないかもしれないという思いが頭を離れず、苦しかった。
昨日は教育虐待を受けていたという日記を書いたばかりだけれど、アンビバレントな感情が渦を巻いている。
親をいっそのこととことん憎めたら楽なのかもしれないけれど、今の私にはかつてのようなエネルギーはもう残っていない。あるのは摩耗した悲しみばかりで、その悲しみを元に創作をすべしという小説講座の講師の言葉を思い出す。
悲しみという感情は厄介で、憎しみはまだエネルギーに変換できるからいいものの、悲しみを抱いていると、どんどんエネルギーを消耗する。
両者の関係は憎しみから悲しみへと変わっていくものだというけれど、実際のところ、私にはもう親を憎む気力は残っていない。
悲しみを幾らかでも昇華させるために詩歌を作る。あるいは小説を書く。それがおそらく創作における根源的なエネルギーとなるのだろうけれど、その悲しみと対峙する気力すら、今の私には残されてはいない。
その悲しみといかに向き合うべきなのか、まだ答えは出ないし、しばらくはアンビバレントな感情に揺さぶられることになるかと思う。ただ、できるだけ主人に迷惑をかけぬようにしたい。
結局のところ創作にぶつけるというのがもっとも穏当な方法だし、その分作品の奥行きも出てくるだろうから、村上春樹の云うところの、嫌な出来事も創作の素材にしてやろうという気持ちが大事なのだと思う。
今は既読の本を再読する形でもいいから、なんとか日々本を読むという習慣を取り戻したい。
現在私が置かれている状況は、本を読む上でも強い必然性を帯びていて、これを無駄にしないわけにはいかないとも思う。
とにかくただでは起きないという気持ちで読書に向かっていきたい。
昼間、注文していた高柳誠の詩画集が届いた。
個人的に信頼している古書店から届いたものだが、美本で、今から読むのが楽しみだ。