ANIRON

ひとりごと日記

2022.07.30 わたなべぽん『さらに、やめてみた』を読んで詩を語る

昨夜は主人が友人たちとマリオカートでオンラインで遊んでいるのをよそに、何かしら軽めの本を読もうと思い立って、わたなべぽん『さらに、やめてみた』を読んだ。

さまざまに考えるところはあったけれども、ひとまず創作という視点から書いていく。

ぽんさんが趣味のサークルを抜けたという話を綴っていて、私自身も短歌結社に入れば、もっと交友関係が広がるのではないかとか、Twitterを通じて創作サークルや同人の輪にふたたび入れば良いのではないかと考えたりもするけれど、小説講座で挫折感を感じ、さまざまな事情があって詩歌サークルを抜けて、今は完全に個人で詩を書き、短歌を詠んでいる。

その方がやれプロになるのならないの、雑誌に掲載されたのされないので煩わされることもないし、私は完全にプロ志向な人間で、人と和して何かをやるためには、それ相応に信頼できる間柄の相手とでなければ難しいという結論はすでに出ている。

まさやまさんと歌会を催していたのも、まさやまさんの歌の読み方がテキスト論に則ったもので、心から信頼できるものであったということと、彼女の人柄がとても信頼できて、心を開ける相手だったからというのは大きいし、やはりネットの付き合いの中だけでは彼女のようなお相手に恵まれることはまずなかっただろうと思う。

まさやまさんには育児という事情があって、今は歌会は休会しているのだけれど、またいずれどこかで彼女と短歌を詠んだり鑑賞する機会を設けられればと思っている。

それほどの人に恵まれたことをまずは感謝すべきなのだろう。

どこまでも不完全な人間である私は、そうして人と和して付き合うことができないから、孤独をより深化させて、深いところに根を張って詩歌を作る道しか残されていないのだと思う。

そうした意味ではこの本はもっとも私のメンタリティに近しい一冊だったので紹介しておく。

諸富祥彦『孤独であるためのレッスン』という本だ。

また非公開で詩歌を作りつづけるということは、私にとって大きな意義があることで、それは自分自身が詩歌を読む目を培うという点でも、また自分自身の詩歌をより高めるという点でも意義深かった。

インスタントな承認欲求をあまり持たない人間なので、非公開で詩歌を作りつづけることをほとんど苦にしないタイプというのもあるのだと思う。

吉増剛造『詩とは何か』には、一時的にであれ、長期的にであれ、誰にも見せずに詩を書きつづけた詩人が幾人か登場する。それはエミリー・ディキンソンであったり、吉本隆明であったりするのだけれど、彼ら、彼女らが沈黙のうちに詩を書きつづけたという事実は、あまりにも深く、そして意義深いものなのだろうと思う。

そうした「私」の中に留めることでしか発せられない言葉というものは確かにあるのだろう。

むしろ人間というものは発する言葉よりも発さない言葉の方がどれだけ多いことかわからない。

youtu.be

「人生は、言葉で伝えない想いのほうが、はるかに多い。」というキャッチコピーを冠したJTのCMも一時期一世を風靡したけれど、そうした想いを形にするには、やはり「私」の中に留まることでしか実現し得ないのではないかと思う。

むろんその「想い」を「私」から「言葉」によって発することが詩なのだと思うけれども、その発し方の過程や途上を、私はできるだけ重んじたいと思う。