ANIRON

ひとりごと日記

2022.07.31 「耳をすませば」と「ポケモン レジェンド アルセウス」

主人と耳をすませばを観て、アルセウスのプロットについて語り合って、おうち焼肉をした一日だった。

耳をすませばは幼少期から数えてもう何度観ているかわからないけれど、大人になって観てみると、雫に感情移入するというよりも、周りを取り巻く大人たちの大人として優れているところに目がいく。

例えば地球屋主人の雫を教え諭す場面や、仲間と連れ立って雫と聖司の輪に入って演奏をするところなどは、涙なしには観られなかった。

カントリー・ロード [ヴァイオリン・バージョン]

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また雫の父の大人として理性ある振る舞いも、親に恵まれなかった身としてはあまりにも眩しく映った。

実父も雫の父のような寡黙で穏やかなタイプだけれど、決定的な違いは、実父は父としての役割を果たさずに、母と対立する私との間に決して入ってはくれなかったことだ。仲裁をすることもなく、母の怒りを鎮めることもなく、ただ嵐が過ぎ去るのを待つばかりで、私は父なき家庭で育ったと云ってもいいのかもしれない。

また地球屋主人が雫を諭す場面は、こんな風にじっくりと待つ姿勢で自分の創作と向き合ってくれる人が見ていてくれていたら、私は適応障害を発症するに至らなかったのではないかと思う。

そんな風にIF(いつものアイ・エフではなく、ここではイフ)の話をしてもしょうがないのだけれど、それでももしそうだったら、私ももう少し普通に生きられたのではないかと思ってしまった。

もちろん責任を他人になすりつけてばかりはいられない。私も良き教え子足り得なかったのは事実だし、私の実力があまりにも及ばないあまりに身勝手なプライドを挫かれて参ってしまったのは確かなことで、これは反省すべきだと思っている。

からしばらく小説から離れると決めて、その決断をするまでには紆余曲折を経たけれど、今は詩歌を作っていて、そのことをようやく誇りに思えるようになってきた。

それがさしずめ私の物語であって、何も理想通りに行かないからまるでダメだったというわけではない。

その物語を自分の手で書き換えて、自ら生きる道を選ぶしかないというのがこの一年私が強いられてきた道であって、その道を自らの意思で選んだとは云い難いかもしれないし、結局のところ詩歌を選ぶというのも逃避に過ぎないと云われればそれまでかもしれない。

ただ詩歌を選ぶにあたって必然性を伴うように、日々詩歌について言葉を尽くして考えてきたことは過去の日記が証してくれることと信じている。

そうして強いられてか、自らの意思によってか、あるいはいずれもが伴っているというのが事実だとは思うが、いずれにせよその道を歩んできたことを誇りに思っている。

とにかくこの悪しき物語が溢れる世の中では「善き物語」が必要で、その役割を長年にわたって担い続けたのが、「子どもたちに善き物語を」という思想のもと作られてきた、宮崎駿率いるジブリ作品群であったことは間違いない。

ただその役割が役目を果たし得ない世の中になりつつあるのは確かなことで、ジブリに代わる「善き物語」を見出していく、あるいは作り手として作ることが、一つの大きな仕事になるのだろうと思う。

それを作り手として私が実際に担うかどうかはまた別問題ではあるけれど、大きな仕事として残されていることは間違いない。

一方、「ポケモン レジェンド アルセウス」は初手でそのプロットを踏まえるならともかく、主人公がようやく信頼を得た共同体から追放する。カイやセキも主人公の情を汲んではくれず、コンゴウ団・シンジュ団という自らの立場を優先し、味方となってくれたウォロすらも主人公を結果的に裏切る。

そもそも「ポケモン レジェンド アルセウス」は、異世界に落ちてきた少年ないしは少女である主人公のギンガ団における「信頼」という価値を人質に取って、帰属する必然性のない、そして言葉を発することができないので一方的に暴力を受けるしかない主人公に、理不尽にも奴隷のような労働を強いた挙句、主人公を追放した連中と共に生きていかざるを得ないという救いのない「悪しき物語」の中に留まってしまっていて、あれではポケモンを「善き物語」とする前提が崩れ去ってしまう。

それは単純に、あるいは無批判に鬱展開などと呼べるものではないし、プロットの構造上大きく破綻している上に、上記の理由で倫理的に考えても問題がある。

その点では深い失望を抱いたし、スカーレット・バイオレットで「善き物語」を構築できるかどうかに全てがかかっていると私は考えている。

子どもたちには「善き物語」が必要なのであって、悪しき物語が満ち満ちている今の世の中で現実を腐すような物語をいくら作ってもしょうがない。

フィクションの役目として「善き物語」というテーマがあるということを説いた村上春樹はその点において完全に正しい。

などということを書くとついヒートアップしてしまうのでやめておこうかとも思ったのだけれど、ジブリを語る上ではどうしても比較が必要だと感じて記しておくことにする。