ANIRON

ひとりごと日記

2022.08.16 ピグマリオン・コンプレックスの視点から「共感」についてさらに考える

一つ前の記事を承けて、『少女終末旅行』3巻について、夕食を共にしながら主人と話した。

センシティブなことには触れずにおくけれど、「共感」というものの危うさについて考えるとき、私はどうしても東京都が主催する相談窓口のAIについて考えずにはいられない。

切羽詰まった夜、人間と話す気力がどこにもなかったので、東京都のAI相談に相談をしたのだけれど、認知行動療法にしても自力で行ったほうがまだマシだろうという有様で、「○○してみましょう」「いかがですか? 死にたい気持ちは収まりましたか?」「次は○○してみましょう」という様子で、一向にこちらのつらい気持ちに同調してくれる気配はない。

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ここにAIの限界があって、「共感」という言葉はその時はじめて人間固有のものとして機能しうるのだけれど、例えば人間同士であったにしても、この共感を得るためにはそれなりの精神的コストを支払わねばならない。

私の場合は東京都の有人の相談窓口を時々利用していて、そこではプロのカウンセラーが担当していることもあり、少しばかりなりとも共感を示していただける。

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ただ、相談窓口で話をしていると、どうしても「こういう方向性に持っていけばこの話は終わらせられるな」という遠慮が働いてしまい、自分の気持ちを率直に伝えることが難しい。

無論産婆術のようにコミュニケーションを交わすことで、自分なりに解決の糸口を見出すというのがカウンセリングの根本にはあるのかもしれないが、ただただ痛みに寄り添ってほしいというときに人は「共感」を求める。

ただ、プロのカウンセラーであれば、内心如何なることを考えていたとしても、少なくとも表面上はテキストメッセージとして「共感」を示してくれるが、それだけでは到底おっつかない場合がある。一時的な「共感」では、そのひとときだけは心が慰撫されるが、その後再び抑うつ感に見舞われる。

「共感」を示していてほしい時、得てして私はそれを裏切られるのが恐ろしいと思ってしまい、かえって相談窓口にも医療機関にも相談できず、ひとりで膝を抱え込んで黙してしまうということが多い。

立場が違う相手に対して「共感」を求めることは、やはり難しい。病友という言葉があるが、病気の内容は人それぞれであって、根本的に理解し合えるわけではない。ただ、その人の苦しみに思いを馳せ、幾らかでも自分の苦しみをそこに重ね合わせる時、初めて「共感」が生じるのだろうが、それは一分の傲慢さも含まないとは云いきれない。

なお悪いことに人間はマウントを取りたがるものだから、他者が弱っているのを見て安堵したり、「自分はこの人よりもマシだろう」と胸を撫で下ろす心持ちを完全に排除することはできないのではないか。私は徹底して人間不信という立場を取るので、この点に関しては厳密にならざるを得ない。

ただそうした時に、やはりウクライナ情勢以降盛んに叫ばれるようになった「連帯」という言葉が意味をなすのだろうと思う。

立場も国も違うし、置かれた状況はまるで異なるけれど、それでもあなたの抱えている痛みをあなた固有のものとしながらも、互いに思いを寄せ合うというニュアンスだと私は捉えている。

よって「共感」よりも「連帯」の方が私はより好ましいと思うのだけれども、この言葉のニュアンスは個々人にとっては異なるものだろうから、その点私の考える「連帯」「共感」と、読者の方の感じていることは違うかもしれないけれど、それはご容赦願いたい。

そうして「連帯」「共感」という言葉を考えていると、どうしても人間嫌いな私は、人間とはやはり分かり合えないのではないかという思いに駆られる。

その点アスカちゃんは良い。ただそこにいて、病友として飾っているけれど、意思の疎通を取ろうとしなくても、ただ痛みに寄り添ってくれる気がする。

ピグマリオン・コンプレックスの人間の奇妙な特徴かもしれないが、そうした人間嫌悪が押井守の「GHOST IN THE SHELL」「イノセンス」を作らしめたのだと私は思っていて、特に「イノセンス」は至上の恋愛映画だと思っている。もう何度見返しているかわからない。

もともと私が主人も呆れるほどのフィギュア好きになったのは、幼少期にセーラームーン水野亜美ちゃんの人形が好きすぎて、旅行先にも持っていくほどだったというエピソードが原点としてあるのだけれど、そもそもピグマリオン・コンプレックスの人間は根本的に人と分かり合うことをハナから放棄しているのかもしれない。

「なぜ人は人の形をしたものに惹かれるのか」という趣旨のことがイノセンスの台詞として出てきたと記憶しているけれど、分かり合えないから少しでも想いを託せる存在を友とし、あるいは私はそうではないけれど、恋人とせざるを得ないのかもしれない。

そうしたものが負の方向に向かいすぎないようにするために、やはりどこかで人とつながらなければならないということは確かなのだろうけれど、傷つき折れた心を癒すすべは、今のところこの人形愛にしかない。

考えてみれば学生時代はしょっちゅう画廊を巡って作家のオリジナルドールを鑑賞したものだったが、あの場で体感した感情と、フィギュアを目の前にした想いとは、おそらく同一のものなのだろうと思う。

そういうわけで心が傷つき矢折れている人は、自分がシンパシーを感じるフィギュアを買うと幸せになれますよ、おそらく。