ANIRON

ひとりごと日記

2022.09.01-02 咲けない日に短歌を考える

ここのところ予定が詰まっていたのと、徹夜もあって調子を崩し、この二日間はほとんどいわゆる「意識のある重体」状態だった。

渡辺和子『置かれた場所で咲きなさい』に「咲けない日があってもいい」と書かれていたように記憶しているので、引用しておく。

どうしても咲けない時もあります。雨風が強い時、日照り続きで咲けない日、そんな時には無理に咲かなくてもいい。その代わりに、根を下へ下へ降ろして、根を張るのです。次に咲く花が、より大きく、美しいものとなるために。

──渡辺和子『置かれた場所で咲きなさい』幻冬舎、2017年。

この本はタイトルだけを見た人が何かと過剰に反応して叩くような風潮があったけれど、その内容は必ずしも反論に則してはいない。

時々忘れた頃にやってくる、個人的なカトリックブームの中で手に取った一冊だったけれども、また読み返してみてもいいのかもしれない。

宗教については、センシティブな内容になるのであまり深く触れないけれど、生きる指針としてこうした本が傍にあるということは、たとえカトリックの信徒でない私であっても、やはり人間にとっては必要なことなのではないかと思う。

近代においては文学がその役割をもっぱら担ってきたのだと思うけれども、その文学の力も今は減退しつつあると感じる。ソーシャルゲームにその一翼を担うことはできるのだろうか。未プレイだが、FGOなどは物語としての性質を強く宿した作品と聞いているけれど。

などと考えてばかりいてもしょうがない。

先日、角川短歌の特集「論考特集 肉体(なまみ)の声(さけび)」を読んだ。

肉感的言語表現に関しては、『シリーズ牧水賞の歌人たち vol.6小島ゆかり』(青磁社、2011年)での伊藤一彦によるインタビューにおいて「自分の身体をくぐるというか、そういうことがすごい大事だと思うんです。」と述べている。「身体をくぐる」とは、実感が伴う言葉かどうか確かめることであり、そのことで単なる言葉の操作による薄っぺらい歌になることを避けようとしているのだろう。

──『角川短歌』2022年9月号、KADOKAWA、2022年、p129

先日AIと詩について書いたけれど、そこで問題としたのはこの身体性についてだった。

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発語する際、たとえ指先で入力するにしても、「口」から発せられる際の戸惑いやためらい、間といったニュアンスを、AIは捉えられるのかということ、すなわち身体性というものをAIは克服しうるのかということが気になったのだった。

AIの描いたイラストは、イラストそのものの完成度云々は別として、厳然として存在するのだけれど、そこには身体性が欠如しており、無気味の谷をどうしても克服できないのではないだろうか。

それともそれは私の感じ方の問題であって、それもやがては克服されて、当たり前のものとして享受されていくものなのだろうか。

おそらく後者が現状なのだろうと思うし、だからこそ多くの人がAIを用いてイラストを物の試しに描かせてみようと試みているのだと思うけれど、一切の身体性を持ち得ないものから生まれた詩を、詩と見なすことは、やはり難しいのではないか。

私自身はこの詩歌と身体性についてこれまでもたびたび記事に書いてきたけれど、例えばウクライナ詠を詠むにしても、テレビの報道映像をそのまま切り取ったような朝日歌壇の短歌や、「私」から隔たったところで詠んで落選した経験を踏まえると、やはりニュースなり、政治問題なりを歌うに際しても、当事者性や身体性と不可分な形では語れないのだろうと思う。

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例えば水原紫苑『如何なる花束にも無き花を』はその問題に正面から向き合った、政治をテーマとする歌集の極地だと感じたけれど、そこにはリベラルの思考様式を窺わせながら、自身が古典的な表現で詠む短歌との矛盾を鋭く突き、あるいは自身と厳しく対峙しながら政治と向き合う、水原紫苑を取り巻く切実な経緯と必然性が保たれていた。

そうした動機の切実さの行き着くところは、おそらく身体なのだろうと思う。

身体を通過して発語するという経緯を重んじることは、詩にとっては欠かせない重要な要素であると吉増剛造『詩とは何か』にもたびたび書かれているけれど、表現形式は異なれど、近接するジャンルである短歌と詩との本質的なところは、この身体性にあることは間違い無いのだろう。

私が耽美的な詩歌から少し距離を置くようになったのも、ここに要因があって、しかし今後詩歌を作っていく上で、その必然性をどこまで担保できるかということは常に自覚しておかなければならないと改めて感じたのだった。