ANIRON

ひとりごと日記

2022.09.03 横山未来子『金の雨』読書会

歌会でご一緒していたまさやまさんと、共通の友人である主人とを交えた読書会の日だった。

テキストは横山未来子『金の雨』を選んだ。

横山未来子はもともと主人が好きな歌人ということもあり、またまさやまさんのテクニカルな歌風には合うだろうということで選ぶに至った。

私は思うように読み込むだけの余力がなかったのだけれど、それでも事前に気づいたことや気になったことなどをメモしておいた。

初めに用意したメモはこちら。

読書会の進行に伴って書き足したメモはこちら。

横山未来子はキリスト者であるとともに、車椅子を使って生活をしておられる。

そのことはあまり直接的に描かれないし、後者に至っては作中で語られることはないのだけれど、物を見る視点の置き方や、世界へのまなざしはキリスト教を抜きにしては語れない。

例えば

見えぬほどの雨降りかかる蜘蛛の巣に蜘蛛冷えをらむこゑをもたねば

という短歌をとってみても、微細なもの、目に見えるものと見えないもののあわいを描くという点において、そこには「私」の視点から乖離した、創造主たる神の視点が向けられていると感じたのだった。

主人、と書くのは読書会では相応しくないので、仮にTさんとする。Tさんは

鳥の蹴りし力に揺れてゐたる枝しづまらむとす風のなき間に

 

ほそき脚に吊りたる体かるからむ目白しみじみと蜜を吸ひをり

という短歌に目を向けて、鳥そのものを描写する際に、翼ではなく、脚に着目することや、重さ/軽さという重量を捉えることで、鳥の生命そのものを描いていると評し、小さいものをあらしめている『力』を捉える力が素晴らしいと云う。

まさやまさんはこの視点について、

月高くとどまれるかな団栗の水音のごと落ちてまた落つ

という歌を引いて、ミクロでありながら宇宙観を示していると云い、これに続いて私は

綿雲の縁にひかりの含まるる午後よすべてを忘れ果つる日よ

 

顔寄せておたまじゃくしを眺むる間われは異なる春をいくつ経ぬ

といった、この歌集全編を通して繊細で微細なものを描く一方で、これらの歌に描かれる「時間」のダイナミックさと、それが神が統べるものであるという点を指摘した。

これに対してTさんは、東大大学院で専攻していた漢文にはよく描かれる時間のあり方だと云い、時間は相対的なものであって、命によって持っている時間は違うことを指摘した。

続いて連作「雫」の話に至り、これは私はあまりきちんと読み解けていなかったのだけれど、

ねむければこゑ出ぬままに開くる口のあかく小さし朝の窓辺に

から

間をおきて黄蝶の来たり紋白蝶(もんしろ)の飛びたるあとをなぞるごとくに

までは現在飼っている拾い猫のことが描かれるが、

わが脚を越えていつもの位置に寝(ぬ)るはいづれの猫か雨の聞こゆる

から

触るるのは最後と知りぬ去りぎはに首筋の毛をすこしもらひつ

までは先に飼って世をさった猫のことが詠まれているというTさんからの指摘があった。

この連作の中では追憶とともに時間の流れが溶け合うように描かれるとともに、小さい命への目線が克明に表れているとTさんは語った。

私はこの一連の流れを読み解けなかったのだけれど、実際に追憶という時間のもたらす、過去と未来とを行き来する時間そのものを連作として短歌に落とし込むというテクニックの素晴らしさを改めて感じた。

続いてまさやまさんは

風に押さるる雲をながらく見てをればわれを載せたる地は滑りゆく

という歌が好きだと語り、ここに描かれる地球の時点や地動説のようなものを感じ取ったと語った。この感覚的な表現に対して、Tさんは固定観念によって目に見えなくなっているものを捉える横山未来子の写生の力とテクニックは素晴らしいとした上で、

藤の香の下にておもふ翅微かにふるはす蜂の体熱きを

という短歌を挙げて、テクニックと写生のあり方について、車輪の両軸のようなものであり、感情を抑制することで微細なものに気づけると指摘した。

さらに

待ちをれば来し黒揚羽鳥(とり)ほどの量感をもちてわれを過ぎたる

 

印象はまぼろしにして風のなかの黒揚羽の貌を見たることなし

という隣接する二首を挙げ、量感という主観と、俯瞰という客観を兼ね備えていると評価した。

さらに

規則ただしき襞のある花のひらきゆき彼方におこる塔の鐘の音

に話が及んで、私はやはりそこに神が統べる万物と、それに対する祝福を感じずにはいられなかった。

そしてその祝福が無意識の領域であり、この歌集にたびたび登場する「ねむり」にも及んでいるという話をした。

巻貝のかたちに我のねむるときあかるき金の雨となりて来よ

というこの本の表題となった一首に触れて、ねむるという自我を離れた領域をも神の統治が及んでいるからこそ、ねむりは安寧をもたらす時間たりうると云った。

これに対してTさんは最近読んでいたという、養老孟司バカの壁』を引き合いに出して、現代人にとって自我というものは意識だから眠ることに恐れを感じるが、眠りとは本来安息であると語った。

これに対して、私は「ねむり」にせよ、微細な虫にせよ、あるいは時間にせよ、この著者の信仰する神が統べる世界においては等しく慈愛に包まれており、その末端にある微細な生き物たちを捉えることで、全体として神が創造した世界を語っているということなのではないかと云った。

そうしてこの本のタイトルとなった短歌にたどり着いて、この読書会は幕を閉じたのだった。

まさやまさんもTさんも大学や大学院で国文学を専攻していただけに、お二方の読む力に引っ張られるようにして、ここまで充実した会を催すことができたのは、やはり大きな喜びだと感じた。

まさやまさんはお忙しい身の上でいらっしゃるけれども、またぜひ読書会をしたいとおっしゃってくれたので、次はニューウェーブ短歌を詠みたいねということで話がまとまった。

読書会をやっているとポケモンGOや、ポケモン剣盾で行ってきたレイドバトルを思い出すのだけれど、そうして巨大な書物に三人で挑むという試みは何よりも知的興奮をもたらすなと感じた。

またぜひ率先して歌集を読んで、いい読書会を開催できるようにしたい。