ANIRON

ひとりごと日記

2022.09.05 『角川短歌』9月号を読むことと本棚整理

随分と遅くなってしまったが、『角川短歌』9月号をようやく読み終えた。

野志保の短歌を読みたくて購入。彼女の高雅な歌風はやはり変わらず。

先日読書会で読んだ横山未来子『金の雨』の流れから、彼女の入門した頃のエッセイを読めたのは嬉しかった。

また特集「肉体(なまみ)の声(さけび)」の福士りか「原点としての河野裕子」に引用された、小島ゆかりの「身体をくぐる」という言葉はとても身に迫って感じられたし、私が実作で目指すところもまさにここにあるのだと思う。

さらに特集「ほっこりする歌」では山下翔『meal』の短歌が好ましいと感じた。


とろとろのたこ焼きはあまき食べ物ぞ口の中にも息吹きかけて


串焼きをじつぽんばかり頼みをへてゆつくり飲めばひとつずつ来る


並ひとつ頼めば愉し今ここに食べる十個の寿司のつやめき


さらに喜多昭夫「歌集歌書を読む」にある小池美恵子『滝壺はいかなる装置』の
窓に立ち見つめてをれば降る雪はこゑを持たない無数の言葉


幾千の鳥をひそめて樹々は立つ騙し絵の如きこの世の日暮れ


春の夜は儚いものがよく似合ふ薄焼き玉子ふはりとかへす


岸辺とは未知との境あさもやに橋あらはれて渡れと誘ふ


も好ましく鑑賞した。

このうち、『瀧壺はいかなる装置』はすでに品薄そうだったので購入することにした。

いい加減口語の短歌をもっと詠んで勉強しなければとも思うのだけれど、惹かれるのはもっぱら文語の短歌で、この表現の幾らかでもエッセンスを口語に落とし込むことができればいいのにと思わずにはいられない。

身体性をくぐるという表現の重みを改めて考えると、やはり美的な短歌に終始するのではなく、病める心身というものと、私は向き合わざるを得ないのではないかと思う。

横山未来子がその短歌においてキリスト者としてのアイデンティティに端を発して短歌を作らざるを得ないように、私はあくまでも病者という立場からしか世界を観察できないし、そのフィルターを通してしか世界に触れられない。

ならばそこに私の目線の必然性は必ず宿るのだろうし、その病というものを捉えるまなざしと、そこから見えた世界を捉える力を磨いていきたい。

小説から離れざるを得なかった理由の一つには、この病というフィルターがあって、病というものに端を発して小説を書くことは非常に困難をもたらすことに耐えかねてしまったと云う背景がある。

例えば太宰や芥川のような作家はいるけれど、彼らは群を抜いた才能があったからこそ、あるいは絶望に打ちひしがれながらも、それを冷徹に客観視できたからこそ、作品が今の時代にまで読み継がれてきたのだと思う。

一方で、物語に出てくる登場人物の多くは健常者であって、私にその本質的な視点は持ち得ないという現実は否定し難い。この壁が立ちはだかった時、私はどうしても小説から距離を置かざるを得ないと感じたのだった。なぜなら読者の多くは健常者であって、彼らに届く小説をかけなければ、商業作家としては意味をなし得ないからだ。

そうした「病者としての私」を受け止めてくれる器を、私は詩歌に見出したのだった。

ゆえに私は病というものを通じて映った世界を詠みたいと思うし、あるいは詩を書きたいと思っている。そこには私という人間の根源的な必然性があるのだと信じている。

一方で、病そのものを直接的に描けばいいというものではない。これに関しては技巧が必要であって、今の私にはまだまだその技術が足りていないのが現実なのだ。

そのような想いに駆られて、本棚の中から歌集をできるだけ一箇所にまとめようとしたのだけれど、まだまだ手付かずの状況だ。

詩集に関してはあちらこちらに散らばっていて、まだ整理ができていない。

このうち葛原妙子歌集、山中智恵子歌集についてはできるだけ早い段階で読みたいし、現代短歌を概観する上で、『桜前線開架宣言』『はつなつみずうみ分光器』も読まねばならない。

葛原妙子歌集

葛原妙子歌集

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まだまだインプット量が足りていないし、しっかり読み込んでいく必要性を先日の読書会では強く感じた。

また短歌読書会を催したいというメンバーの意向もあるので、今度はニューウェーブ短歌を選べればと思っているけれど、その勉強もしっかり重ねていきたい。