ココア共和国に散文詩を投稿した。
おそらく今月も落ちると思うので、正直なところ自分の詩を選ぶ目が鈍っているのを如実に感じる。私は一本の詩を投稿するのに十数篇は詩を書くので、そのいずれからかこれというものを選ばなければならない。
先月、そして今月と選んだ詩はいずれもよろしくなかった。
その経験を踏まえて今月詩を投稿したのだった。
ファンタジー的世界観と、悲しみを歌い上げる詩風は、私の芸風ではあるけれど、ともすれば時に耽美・前衛に寄りすぎてしまって「私」から離れてしまったり、あるいは「私」の根源に迫ろうとして、言葉足らずになってしまうということがあり、今年に入ってからそうした傾向が強くなってきていると感じる。
襟を正してしっかり詩と向き合わねばならない。
非公開で詩を書くことは苦痛ではないけれど、時に「ああもう私は完全にダメだ、どれもこれもダメだ」と思ってしまう瞬間があり、今まさにその瞬間の只中にいるのだけれど、その落選した要因は自分なりに把握しているつもりだし、そこをクリアしていると思しき詩を送ったのだった。
詩作に関してはここのところ筆が鈍っているのを感じていて、それは私が根源的な自分自身の悲しみに触れることを拒んでいる節があるからなのだろうと思う。
アスカちゃんのフィギュアを再び飾ったのは、その根源的な悲しみへの道先案内人としての役割を期待してのことだった。
悲しい日々が化石に変わるよ
もうすぐ
あなたのその痛みを 眠りの森へと
密やかに導いてあげる
涙の岸でずっと佇んだ気持ちを
優しく包むように 秘密の薬が
想い出の沖へと運ぶよ
という歌詞に、この一年の間、どれほど救いを求めてきたかわからない。
実際にこの曲は昨年最も再生した曲のプレイリストの中にも入っていた。
その悲しみを見つめる覚悟を新たにしたい。
それから先日書いたように、小池美恵子『滝壺はいかなる装置』を購入するとともに、松野志保の新作短歌が読める『月光』72号も購入することにした。
月光はほぼ毎号のように買っているけれど、今回もしっかり読み込んでいきたい。
前衛短歌を読むことを通じて、改めて自分の短歌の方向性を探っていきたいと思っている。
『角川短歌』9月号に、以下のような文章とともに塚本邦雄批判がなされていたことも記憶に新しい。
思索と感情が一体となって深い迷路に入り込むような、そんな主題を短歌が引き受けるのは無理がある。人はそういう批判をするだ謳歌。
それこそ笑止千万な妄言である。
思索と感情をともどもとらえることのできない文学は、近代文学ではない。まして現代文学からほど遠い。歌人たちが、自立した市民としての自覚とふるまいを忘れ、蒙昧な世界に遊び続けているとすれば、それは今の世界では集団的自慰行為であり、文学の死を意味するのである。その先には〈市民の死〉が待っていることだろう。
──坂井修一「かなしみの歌びとたち」『角川短歌』9月号、KADOKAWA、2022年、p153
これは極論なのではないか。塚本邦雄は新古今和歌集の再評価という文学史史上意義のある功績をなしたし、近代における定家たらんと短歌を詠み、数多の評論を書いてきた。
それを反時代、逃避、果てには自慰行為と冒涜するのはどうしてもいただけない。
とかく今の世の中は右を向いても左を見ても政治のことを何らかの形で表明しなければならないという息苦しさに満ちている。その渦に呑み込まれ、自我を放擲した形で報道映像のような短歌を作ったり、あるいは自己と政治との間にある距離を一足跳びに飛び越えて、己の怒りこそが絶対的な正義であると振りかざす風潮には本当にうんざりしている。
どうにも東日本大震災以降、そうした風潮が出来上がってしまって、表現を成す人間は多かれ少なかれその文脈で作品を評価されざるを得なくなってしまっている。
誰もが政治性を帯びた短歌を詠む必要はないし、コロナ禍やウクライナでの戦争を歌わなくてもよい。
それは自明のことであって、ここに書くまでもないことなのだけれど、新古今和歌集に描かれた美の世界は、そうした戦争の時代への叛逆の表明であったことを捉えると、そこに美の持つ毅然とした態度を感じずにはいられない。
塚本邦雄もまた戦争という時期を経てきたからこそ、あの美の大聖堂のような短歌群を残したのだろうし、それを自慰行為と汚らわしい言葉で断罪するのはあまりにも短絡的すぎる。
もっとも塚本邦雄や、現代であれば水原紫苑のように、美を志向するにしても、そこに強い必然的動機がなければ、詩歌は力を持ち得ないということは云えるのかもしれないが、これに関しては自分自身の問題でもあるので、もっとじっくりと考えていきたい。
追記
この日は薬を飲まずに寝落ちたおかげで、終始希死念慮が頭をもたげていた。
そういう時に出てくるのは詩ばかりで、指折り数えて定型の短歌を詠むゆとりがない。
十二年詩を書いてきて、私に最後に残されるのは詩のみなのかもしれないとも思ったのだった。