ANIRON

ひとりごと日記

2022.09.08 #2 詠めないなりに短歌の方向性を模索する

あまりメンがヘラったことばかり書いてもしょうがないんじゃないかという気がしてきて、ここ数日はもっぱら創作のことか、読書のことだけを書くようにしているのだけれど、療養詩歌を作ると決めた私にとって、病んでいる心身を書くことは、もはや避けようがないという気もする。

ここのところ短歌読書会をしたり、歌誌を通じてプロの短歌に触れると、自分の短歌のあまりの拙さに天を仰ぎたくなり、私の有する「私性」があったとして、そこに技術が伴わなければどうしようもないのではないかという思いが頭から離れない。

私の短歌は客観的に見るといかにも拙く、短歌を読む技量もなく、ただただ無為にページを繰っているだけなのではないかという思う。

短歌については、どのように方向を模索していくべきなのかまだ迷っていて、NHK関連の公募に照準を合わせるのであれば、現在の療養短歌をベースとした、「私」に起点を置いた短歌が妥当なのだろうと思うし、いかに耽美的・幻想的な歌風であったとしても、「私」なくして短歌は成り立たないということを『ねむらない樹』vol.9の水原紫苑、川野里子、大森静佳の山中智恵子をめぐる座談会を読んでいると感じたのだった。

川野 『夢之記』の「黑翁」の一連も、最初のうちは天皇制への糾弾として読んでいたんですよ。だけど、今回ちょっと読み方が変わっちゃって。天皇と私は同じものって言っているような気がするの。つまり「青人草」を殺したのは天皇と一体となった我々である。だから山中智恵子にはどこか、さっき「罪障」という言葉を使ったけど、天皇制と私は一体のもの、そして同じ罪を背負っているという、そのスタンスで詠っているんじゃないかという気がしたの。「その問ひを負へよ」もそうだけど、近代市民として天皇制を糾弾せよとかそういう話ではなくて。

水原 ああ、面白いですね。

大森 最初は批判だったかもしれないけれど、批判的に見ているうちに、見ているものにやっぱり内臓が持ち込まれて、主体が混濁してきますね。斎宮にしても、斎宮視点でありつつ次の歌では喝食視点にすり替わる。

水原 そうですね。斎宮は長いこと自分だったんですよね。だけど斎宮というのは天皇制を補完する制度だったから、だんだんそうなってくる。

川野 戦後に清き平和な市民社会の一員になって詠った近藤芳美とかはすごく違っていて、結局背負い続けた。

水原 戦中派としてのやむにやまれぬ天皇に対する愛執みたいなものがあるんでしょうね。

川野 主語のあり方として、天皇がもし悪であるならば、私もその悪の一部であるという感覚はひっくり返せば天皇への愛着のようなものを感じさせる。

大森 山中智恵子と天皇は心中した、と言うより二人は一体なので自殺ですよね。心中でさえない。クリーンな批判はできない。歌の現場としてはかなり身体感覚的な転がり方をしているようにも思いますが。

水原 そこは私は山中さんに絶望しますね。歌がそういうものなら、そんな短歌形式は私は要らないと思いますね。

川野 「雨師すなはち天皇にささぐる誄歌」の一連が傑出した一連だとすれば、その当時を生き、そして今まで天皇制をいただきながら生きてきている私たちの魂の形みたいなものを結局抉り出していると思うんですよ。それが嫌だろうと何だろうと。ここまで天皇制について深いところから語った言葉はない。

ただここまで徹底した思想や短歌に対する覚悟を持って、短歌というジャンルに挑めるのだろうかと考えるとき、私にはまだ到底その覚悟は引き受けられないと思ってしまう。

技巧という点において彼女たちの短歌が傑出していることは云うまでもなく、水原紫苑の思想は徹底して『如何なる花束にも無き花を』に描かれている。

そのエッセンスの幾らかでも学びに変えられればと思ってはいたけれど、この歌集を読んで、そう甘いものではないということをまざまざと思い知らされ、圧倒されたのだった。

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文語という表現形式をリベラルとしての思想に貫かれた身に引き受ける矛盾から逃れず、徹底して対峙する芯の強さは、これまでに読んできたどの歌集よりも気迫に満ちていて、到底素人風情が上っ面だけを真似できるような代物ではない。

その覚悟が自分にあるかと問うとき、やはり私は口語短歌を詠む必然性を見出して、できるだけその必然性を自分の身に引き受けて詠んでいく他ないのだろうと思う。

例えそれが拙い表現であったとしても、自分の表現を信じて、それを磨いていきたい。