ANIRON

ひとりごと日記

2022.09.09『ねむらない樹』vol.9を読む

書肆侃侃房の『ねむらない樹』vol.9を引き続き読んでいる。

今朝読んだのは作品集に並んだ短歌群で、これらを読んで考えたことをさまざまに紙に落としてみたのだった。

夕焼けに興味がないことはないわざわざ眺めに行かない毎日

 

あの時好きだった本のあらすじを聞いて私も好きだと思った

──仲田有里「ライト」

 

しっぽをふりながら名前がかけよってくるそれを犬と呼ぶことにした

 

こちらからぶつかっといてなんですが見た目によらぬいい人あたり

──望月裕二郎「かえりたかった」

 

と散文的な短歌が目立った。

軽みを重視し、いずれも口語表現の持つフラットさを強く意識した作品と読んだけれども、そこに短歌として、あるいは短詩型としての短歌の詩情はあるのだろうか。

日常を描くことの意義はまた置いておくとして、短歌として詠むにあたっては、やはり幾らかでも詩情を伴っていなければならないのではないか。それが詩歌の表現である限りは、いくら日常詠として詠むにしても、詩としての性質を備えていなければならないと私は思う。

そこに美的な要素がある必要はないし、美という観念は詩の全てではないので、美的でないという指摘は当たらないのだけれども、詩情のもつエモーショナルな動きや、飛躍、あるいは表現そのものが伴う芸術性というものが欠如していると感じた。

短歌の成り立つ要素について考えるとき、そこには詩情と写生と「私」と要素がおそらくあるのだろうと私は考えているのだけれど、これを満たすのは一連の短歌群の中では

悪い夢ばかり見て気が狂いそう来週水仙が咲きそう

 

梅の花 忘れられたくないことの地区の東はもう暮れ泥(なず)む

 

信号に青い光を、その奥の夜桜におのおのの祈りを

 

その手紙は僕を自死から遠ざけて木瓜(ぼけ)の花さく裏庭へ連れていく

──千草創一「いくつもの四月をしないために」

という千草創一氏の短歌にしかないと感じた。

「悪い夢ばかり見て気が狂いそう」という「私」と、「水仙」という詩情があり、あるいは「梅の花」「東はもう暮れ泥む」という詩情に挟まれて「忘れられたくない地区」という「私」の心があり、あるいは「信号」「その奥の夜桜」という写生を伴って、信号には「青い光」を、夜桜には「おのおのの祈りを」という「私」の願いがある。

さらに「その手紙は僕を自死から遠ざけて」という「私」を、「木瓜咲く裏庭へと連れていく」という詩情がある。

これらの短歌には詩情と「私」と写生とが三拍子揃っていて、その組み合わせの度合いについてはまだ精度を上げていく余地を感じるものの、それでも短歌というものは基本的にはそういうものなのではないかと思う。

ただ、この

悪い夢ばかり見て気が狂いそう来週水仙が咲きそう

をめぐっては、昼休み中の主人とLINEでやりとりをした折に「リズムが悪すぎる」と評された。

たしかに歌の調べというものは厳然としてあるなと感じたし、この「調べ」もまた短歌の本質を成すものの一つだろうと思う。

それはいくら詩情を伴っていようとも、あるいは美的表現を表していようとも、歌の「調べ」をおおよそ度外視した作品は、短歌としての素質が落ちる。

Twitterを通じて、先日横山未来子読書会を共にしたまさやまさんからも、「水仙ナルキッソスという音に変えればいいが、それだと歌意が通らない」という指摘があった。

ナルキッソスという自意識の過剰を表現するために水仙という語を用いたのだろうかと、私も一読した時には感じたのだけれど、ここでは希望の表象としての花が描かれるに留まっているのだろうと思う。

口語短歌の持つ表現はまだまだ高めていく余地があるなと感じたし、私自身の短歌もより新たな表現を模索していかねばならない。

「私」というものを捉える時、そこには病というものと分かち難く結びついた「私」がいるということはこれまでもブログに書いてきたけれど、その「私」の見る世界と、現実世界との乖離を、どのように捉え、どのように表現していくか。その乖離や齟齬の切実さをどのような形で短歌という詩に落とし込んでいくべきなのか。

まだまだ読まねばならない歌誌歌集は多いし、勉強に引き続き励んでいかねばならない。

図らずも短歌読書会のような形になったが、まさやまさんと主人と短歌についてこうして批評して語り合えたことはとても有意義だったことを書き添えて締めくくることにする。