ANIRON

ひとりごと日記

2022.09.14 #2 焼き締められたゴシック、あるいは呪いの系譜について

本論

先日の記事に引き続いてゴシックの表現について書く。

先の歌集について「焼き締められていないゆるい」表現という風に評したので、では焼き締められた表現とは何かと考えるときに、思い当たるのは、先の歌集を評価した藤原龍一郎こと藤原月彦の『貴腐』であって、この句集にその答えがあるのではないかと考えた。

そこで再読したのだけれど、短歌と俳句という表現形式の違いはあれど、やはり俳句として、あるいは詩歌として、その姿は端正であって、一分の隙もない。

この藤原月彦の俳句を好ましいものと思って、私自身一時期は句作をしていた頃があった。

その表現はいかにも拙いものではあったけれど、それでも私が詩歌、それも俳句や短歌といった短詩型の表現を目指すにあたって、一つの理想系はやはりここにあると考える。

亡母(はは)に恋文牛の舌煮る午餐かな

 

兄妹羽化しつつありあかずの間

 

凍死せる蝶のごとしよ母と寝て

 

秋逝くと箪笥にもどる一族よ

 

風呂桶に一族沈む雪明り

血族の因縁の物語と、その死という横溝正史めいた俳句の数々が並び、私は仮にまだ小説がかけるとしたら、このような血の呪しさを記した小説を書きたいと思っているのだけれど、それが叶わないにしても、やはりこの「呪しさ」を胸に抱いていたいと強く願う。

そしてその「呪しさ」の純度を高め、それをできるだけ研ぎ澄まされた形で表したい。

そこにおそらく私の考えるゴシックはあって、それは正鵠を得た答えではないのかもしれないけれど、ただ病的な心身から発せられる声が、一分の混じり気もなく崇高さ、あるいは美に到達するためには、この「呪しさ」からやはり離れたところでは歌えないのだと思っている。

例えばTK from凛として時雨Coccoは、一方ではあらゆる人間を憎むという形で、あるいは他方では恋という形で「恨み」や「呪い」を表現するけれど、これらの表現が切実さを帯びるのは、単に美という観念には留まらない当事者性、あるいは「病める私」というものを伴うからなのだろう。

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あるいは小説で云えばアンナ・カヴァンなどが挙げられるけれど、彼女の発する叫びが、皆川博子が評するように美的なものとして捉えられるのは、そこに「私」の「呪い」を超えた観念としての崇高さを伴うからなのだと思う。

そうしたあり方を取ることでしか、おそらく私の果たしたい表現というものは志向できないのではないかと思う。

無論藤原月彦において「私」というものがどれほど描かれているのかは私のような素人にはわからないし、そこに「呪い」を見出すのは私の勝手なことなのかもしれないが、呪術的なニュアンスを多分に含むことはおそらくそう違和感のあることではないかと思う。

主人と話していると、たびたび文学の系譜の話になり、主人は森鴎外に連なる、井伏鱒二太宰治という系譜を愛すると云うのだけれど、私にとって切実な系譜があるとすれば、それは学生時代に傾倒した、谷崎准一郎・泉鏡花から端を発する耽美派の系譜ではなく、むしろ横溝正史、あるいはアンナ・カヴァンから発せられ、「ひぐらしのなく頃に」など現代のホラー作品へとつづく、「呪われた」系譜なのだろうと思う。

私はその点について力が及ばないあまりに認識不足もあり、また自分自身がホラーを苦手とすることもあって、素直に受け入れられずにいたのだった。

ただ、ホラーという表現形式がこの呪しさを受け止める器であるとするならば、いずれ小説の道に戻る道筋も見えてくるのかもしれない。そうは云っても、今のところはまだしばらく詩歌にとどまるつもりではいるのだけれど。

その「呪い」と対峙し続けることに耐えかねた結果、今の私自身の両親との関係を取り巻く状況が生まれていて、私はここ二年余りにわたってその「呪い」を封じようと努めてきた結果、今ののっぴきならない状況がある。

両親を呪うということは、「人を呪わば穴二つ」という言葉がある通り、自分自身にその苦しみを引き受けることでもあり、単なる他責では済まない。自分自身にも呪いを引き受けねばならないし、その苦しみは18歳から22歳に至る時代まで私の心に宿しつづけてきたものでもあった。

無論こうした「呪い」を抱くということは、人間のあり方として決して好ましいあり方ではないし、どこかのタイミングで許さなければ自分もまた許されないのだけれど、ただ今は「呪い」を我が身に抱かなければ、それを克服するすべはないのかもしれない。

こうした「呪い」を現実のものとして語ることはやはり忌避せざるを得ないので、なかなかリアルの場では語れないけれど、思考メモとして留めておくことにする。

 

追記

この文章を提示したところ、主人から、「小説はやはり論理的な構築物と見た方がいい。横溝もひぐらしも、論理性を持つ主人公が非論理性を持っている呪われた者たちを解放していくという構造になっていて、それによって多くの読者を獲得するに至っている。ゴシックはあくまでも趣味であって、そこに人格の主体を置くべきではない」という指摘があった。

なるほど、そのような指摘はもっともだし、私自身の小説に対するスタンスとは違う立場ではあるけれど、横溝正史なり「ひぐらしのなく頃に」はそうした構造になっていることは間違いない。ゆえに多くの読者を獲得するに至ったと主人は述べた。

また両親を呪うということは少なくとも今の私にとって最適ではないという指摘もなされた。

これについては私自身、もはや大学時代のようなバイタリティは残っていないし、呪うということを表現上は試みたとしても、現実として一生涯にわたって親を呪いつづけることはおそらく難しい。

逆説的に表現上における呪いへの希求が強く呼び起こされるのは、この点にあるのだろうと思う。

ゴシックとは趣味の領域に留まっていると云う意見ももっともだとは思うが、そこに一切の精神性を含まないかと云われると、それはまだ考える余地が残されていることと思う。

上に紹介した『ゴシックの解剖』をもってしてもその分析が十全になされているとは云い難いのだけれど、それでもその精神性の志向するところは、やはり同著の説く通り、社会への叛逆であり、あるいは私の言葉で云えば「呪い」なのだろうと考える。

無論そうした精神性にどこまで主体性を置くのかということについては、さまざまなスタンスがあると思うけれども、私の表現手法としてゴシックに寄せるということについて、もっと自覚的であらねばならないという思いを強くしたのだった。