ANIRON

ひとりごと日記

2022.09.17-20 詩歌から離れられない

短歌に対する主人からの講評をもらった。曰く、私の短歌は視野が狭く、詠む対象に広がりがないらしい。私は短歌が下手だという思いを強めてきたここ数ヶ月だったけれど、考えてみれば歌の姿が痩せてきたのは、そこに一切の幻視も含まない、内面的な写生というものを目指してきたからではなかったか。

一方詩はどうかというと、ペーパーウェルに寄稿する原稿は作っていてやはり楽しかったなと思う。

こうして書いていて、美を志向し、芸術性を高めていきたいという思いを、封殺している節があったことに気づいた。

それは私にとって本来求める形ではないのではないかという思いが頭から離れない。

ただ詩は詩として成立させる必要があり、あるいは短歌は短歌の形を取らねばならない。

私の考える詩のあり方と、耽美的な詩のあり方はやはり少し乖離があって、現にココア共和国落選の憂き目にあったのも、この点が要因なのだと思えば、少なくともココア共和国を出国する必要がある。

随分と足踏みしていたけれど、そろそろ新たな挑戦をしてもいいのかもしれない。

そしてどこかで詩と短歌のいずれかを取らねばならない時が来るように思っていて、今のところ詩は12年にわたって書き続けてきたから、詩を取りたいと思っている。

もちろん短歌も読み込んでしっかり作りたいという思いはあるけれど、ここのところ作歌のモチベーションが著しく落ちている。まだまだ歌の方向性を模索する必要があって、20日には短歌の方向性を探るように歌を詠んだ。それでもまだ答えは出ない。

萩原朔太郎にしても、赤尾兜子にしても同様だけれど、懐古趣味的な日本美を読んだり書いたりした詩はどうしても小ぶりになってしまう。その模索を続けるなら、やはり山中智恵子はしっかり読まねばならない。

そうは云っても彼女は戦後に至っても戦争を背負いつづけ、天皇制批判の歌を詠んでいるし、その域にまで達することは私には不可能なのだけれど。

そこで以前図書館で借りて読んで、再び読もうと思って手に取ったのが前川佐美雄『捜神』なのだけれど、こちらに関しては新たに読むに際してはさらに深く読み込む必要がある。

イムリーなことに、『ねむらない樹』vol.9の特集には前川佐美雄も取り上げられていたので、『捜神』を熟読したのちに目を通したいと考えている。

詩歌から離れる、短歌を捨てると書いておきながら、結局のところまだ離れられそうにない。

詩についても新たな模索を始めたい。それは評価される形かどうか、現時点ではわからないけれど、それでも芸術性を高めたいという一心でここまで詩を書いてきたことを深く自覚し、作詩へ向かっていければと思う。