ANIRON

ひとりごと日記

2022.10.13 現代詩手帖10月号の特集を読む

猫との生活にまだ慣れず、なかなか創作もできず、本も読めずにいる。

主人との会話だけが唯一知的な愉しみを与えてくれるので、寝る前のひとときがいっそう大切になってきた。

一昨夜は『こんな夜更けにバナナかよ』をめぐって自立の話になった。

それは私の築きかけていたアイデンティティはそれに逆行するものだったのでいたく落ち込んでしまい、言葉を発することさえできず、喃語のような言葉の切れ端を発するのが関の山という有様になってしまったのだった。

どうにも昔からこうして病状が思わしくないと発語に支障をきたす。

吉増剛造は『詩とは何か』において、吃ることや発語する前のためらいが詩にとっては重要だという指摘をなしていたことを思い出し、詩論にもっと触れるべく、現代詩手帖10月号を読みはじめた。

特集の松下育男『これから詩を読み書くひとのための詩の教室』にまつわる箇所はとても興味深く、そしてその引用に思わず声を上げて泣いてしまった。

〈詩は、自分のためにひたすら書く。それだけでいい。詩のよさってまさにそこにある。自分を幸せにするためにとか、自分を救うためにとか言ったら大げさだけど、自分と付き合うため、自分の孤独を知るため、自分の至らなさを見つめるため。自分の手を握ってあげることくらいはできる〉

 

〈ぼくらは詩を書くために生きているのではない。生きるために詩を書いているんです。ぼくらは自分を滅ぼすために詩を書いているんじゃない。生きるために書いていたいのです〉

私はここ一年間詩をココア共和国に投稿してきて、その間ずっと苦しかったのだと思う。その苦しさに耐えかねて、今は少し詩作から離れているけれど、それだけにこの文章を読んで、自分にとって詩は、自分自身の孤独と向き合い、病を見つめ、そうして生きる道を模索するための「過程」だったのだと思う。ちなみにこの「過程」という言葉は、吉増剛造『詩とは何か』にも説かれていたことだった。

吉増剛造の厳しい詩論とは打って変わって、未読なだけにこれだけではなんとも云えないのだが、どうやら松下育男の説く詩論は、柔術のように、柔をもって剛を制すというニュアンスが強いのかもしれないと感じる。

詩人によって立場の違いや、詩の見方はさまざまにあるけれど、きっと本質的なところは同じであって、だからわからないものではあれども、詩は詩として成立するのだろう。

快楽のために詩を書いていた時期が長く、こうして自分の根源的な苦しみや罪といったものを見つめる詩作は、険しい道ゆきで、その道半ばで疲れ果てているのが現状だけれども、もう少し、この苦しい道のりを歩んでみたいと思い直したのだった。