ANIRON

ひとりごと日記

2022.10.17 宇野重規『保守主義とは何か』を読む

まだ子猫の愛猫・冴ゆの世話もあり、なかなか手が離せないことから、本を読むゆとりがあまりなく、昨日からようやく宇野重規保守主義とは何か』を読みはじめた。

バークにはじまり、T・S・エリオット、そしてハイエクと論が進んでゆく。

詩を書く人間の端くれとして、バークが若年期において『崇高と美の観念の起源』を著し、

人に心地よさを感じさせる美とは対照的に、崇高はむしろショックや緊張感を与える。とはいえ、そのようなショックや緊張感は、人間の生を助長し、再生の機会をもたらすとバークは論じた。このような「崇高」の観念は、バークの著作に刺激を受けたカントによって再び取り上げられ、『判断力批判』の重要なテーマの一つになっている。

──宇野重規保守主義とは何か』中央公論新社、2016年、p27

 

実際『崇高と美の観念の起源』でバークは、社交がもたらす「快」や「美」と、孤独がもたらす「苦」や「崇高」とを対比した上で、あえて「美」ではなく「崇高」に積極的意味を見出しているのである。

──宇野重規保守主義とは何か』中央公論新社、2016年、p28

という箇所は、美学をかじったり、芸術学をかじっていた学生時代を懐かしく思い出すし、崇高という観念こそ、私が詩を通じて目指してきたものそのものなのだということを認識した。

本書は無論保守主義について論じてはいるのだけれど、そこから脱線して、詩について考える契機が度々あった。

というのも、T・S・エリオットという高名な詩人が保守主義者として本書に登場することをはじめ、随所に文学と保守主義の論壇の形成過程が記述されているので、自ずと自分自身の立場を振り返って考えずにはいられないのだ。

エリオットといえば、(…)前衛的表現で知られる詩人である。しかしなあら、三十一歳の時に書いた「伝統と個人の才能」では、むしろエリオットは伝統の意義と重要性を強調している。

「伝統とはまず第一に、二十五歳をすぎても詩人たることをつづけたい人なら誰にでもまあ欠くべからざるものといっていい歴史的意識を含んでいる」(「伝統と個人の才能」)。すなわち、己をこの伝統のなかに位置づけることではじめて、その現代性を鋭敏に感じることができる。さらにいうならば、伝統とは固定したものではなく、現代のなかで新たなものを付け加えることによって飲み更新されるのである。

──宇野重規保守主義とは何か』中央公論新社、2016年、p69

現代の文壇ではリベラル色の方が強いが、本書によれば、文壇と保守論壇とはかなり近しい間柄にあったらしい。

無論それは文壇というものがエリート階層にのみ開かれた場であったからなのだろうと思うけれども、現代でもその構図は基本的には大きく変わっているとは思えない。ただ敗戦という大きな契機があって、現代の日本の文壇がその形を大きく変えざるを得なかったのは確かだろうと思う。

そのように、必ずしも保守主義だけにとどまらず、様々なことを考えるいい材料となる良書だと感じる。

まだ途中までしか読めていないので、なかなか保守主義について踏み込んだことはまだ書けないのだけれど、それでも読んでいて、やはり私は保守主義者なのだなと感じる箇所が多々あった。

猫の世話もあるので、なかなか論を立ててじっくりと論じることは難しいのだけれど、せめてこうしてメモとして残しておくことにしたい。

今日は冴ゆはよく眠っていた。

低気圧の影響もあってさぞかし眠いのだろうと思うのだが、いつものようにキッチンの物陰に隠れて眠るのではなく、もっぱら私の膝の上で眠りこけていた。

数時間にも及ぶ間、こうして冴ゆを膝に乗せて、ブログを書いたり本を読んだりしていたのだが、なかなか思うように詩が書けない。代わりに短歌は幾らか詠めて、この子猫の大切な期間の間にできるだけ猫短歌を詠みためていきたいと思う。

既刊の猫短歌のフリーパーパーもよろしくお願いいたします。

star-bellflower.booth.pm

note.com

BOOTHとnoteにて配信中です。いずれも無料となります。

BOOTH版はペーパー形式、note版には冴ゆの写真を掲載しています。いずれかお好きな方をご利用いただければ幸いです。

詩に関しては、これまでのように完全に孤独に入り浸たり、自分なりに「崇高」を目指してやってきたつもりではあるけれど、冴ゆという存在がいると、あまり暗い詩ばかりを書いてもなぁという気もしてくる。

まだまだ詩の形には変化がありそうだ。冴ゆを膝に乗せながら書く詩の形はどのようなものになるだろうと、不安と期待が入り混じった思いを抱いている。