ANIRON

ひとりごと日記

2022.10.22 『歌壇』2022年10月号を読む

野志保の短歌を読みたくて購入した、『歌壇』2022年10月号を読み終えた。

中でも木村朗子・川野里子「ことば見聞録」は大変読み応えがあった。

時事詠から、和歌と短歌の間の断絶、戦後短歌と現在の短歌の有り様について言葉が交わされ、そのどれもが考えさせられるものばかりだった。

戦後短歌についてはまだそれほど私は読みこなせていないので、講義を聴くような心地で読んだのだけれど、時事詠について

木村 (…)ただ、日本社会では時事的なあるいは政治的な見解を言語化するのに慣れていないと思いますし、まだ作品化できないでいる人のほうが圧倒的に多いのかもしれません。プロパガンダに堕すような意味のあることを書いてはいけないという「純文学縛り」みたいなものもあって、「意味なんてないんだ。言葉は言葉なんだ」という美学も依然として強くあると思います。そうすると、時事問題は書けない。こういう流れから予め自由である人しか参加はできなかったんだろうなとは思います。

──木村朗子・川野里子「ことば見聞録」『歌壇』2022年10月号、p104

と書かれていたが、歌壇の状況は今のところリベラル寄りで、保守的な時事詠を詠む余地は残されていない以上、これはやむを得ないのではないかとも思うし、そうして言論を自ら封じている私のような人間がいることを、おそらく歌壇は拒むのだろうと思う。そうした不信もあって、私はなかなか時事詠を詠めずにいる。

木村 三島由紀夫でさえ、いろいろな人が普通に触れるようになったことにびっくりするんです。タブー意識みたいなものが私には強くあって、天皇も、タブーの領域にあると思っていたんですけど、それも無くなっているようで、若い歌人が「すめろぎは」などと、三島由紀夫みたいな言葉遣いをしているのを見ると、ドキッとする、と同時に、もう切れたんだ、私の代で最後なんだなとも思って……。これはもう感じているだけではなくて、そろそろ戦後日本文学研究ってこうでしたよということを言語化しておく必要があるのではないかとも考えているのです。それで川野さんにお話を伺いたいなと思ったのです。

──木村朗子・川野里子「ことば見聞録」『歌壇』2022年10月号、p100

私は史学学徒で文学研究をしていたわけではないので、素人考えなのだが、日本文学研究において三島由紀夫がタブー視されていたという事実は確かにあったのかもしれないが、「いろいろな人が普通に触れるようになったことにびっくりするんです」というのはやはり研究者としてあるまじきことなのではないか。

時代の変化とともに政治観、歴史観も変化していくのは止めようもないことだし、その変化を否定するということは、学問を追求する人間としての資格に欠けるのではないかとも思う。時代はある時代の固有の価値観のままで止まってくれないのは自明のことだ。

私の知人には大学院での三島由紀夫研究を志した人もいるし、それがタブー視されて反対の憂き目に遭ったという話はついぞ聞かない。

「ドキッとする」とか「タブー」とか、感覚的な表現を用いることなく、理論で攻めてほしいものだと思う。少なくとも、歌誌『ねむらない樹』vol.9においては天皇制と短歌の問題について歌人たちが深く切り込み、闊達な議論が行われていた。

「私ドキッとするんです、だからあなたにも共感してほしいんです、そのために私に共感してくれる言葉が欲しいんです」という対談はあまり意味を成さないのではないかと思う。

もっとストイックに理論立てて攻めなければ、天皇制を批判することも、三島由紀夫を非難することも、「戦後という時代の価値観」に立脚することでしか語れなくなってしまう。

それは理論としては片手落ちなのではないか。もはや戦後は終わって久しいし、時代は移ろっているのだから、その移ろいを非難めいた感情論で片づけるのではなく、そこに価値を置いて偏重するのではなく、建設的な議論を進めていかねばならないのではないか。

上に、木村氏は時事詠を勧める趣旨のことを述べているが、それが三島由紀夫を未だにタブー視しつつ、リベラル側の視点によってのみ許されるのだとしたら、保守的な短歌に居場所はない。その狭隘な価値観を是とするのならば、もはや時事詠を詠む必然性などどこにもない。よって私が時事詠を詠むことは今後ともないのだろうと思う。

また当事者性についての箇所も引用しておく。

木村 そうですね。当事者が特権化されてしまって、逆に外から参入できないということかもしれないですけど。小説だと当事者性の問題が長い間、議論され続けたのですが、短歌で、当事者ではない人が、たとえば被災者の立場で詠むなどは「あり」なのでしょうか。

川野 それは多分、絶対ないと思います。当事者性の問題って、当初はどこまでが被災者か、誰が被災者かという問いとして立ち上がりましたし、当事者ではないのに詠んでいいのかという問いも生まれあました。被災地とどういう関係にあるかを考えることが中心になった気がします。そういう意味では、木村さんがご著書の中で語ってらした被災地から広がる同心円、それが危険度であると同時に、問題の当事者性の同心円になって広がっていったような気がしますね。しかしそれ以外の可能性はないのか、ここからが考えどころです。

──木村朗子・川野里子「ことば見聞録」『歌壇』2022年10月号、p106

時事詠における当事者性の重要性については、これまで私自身も言葉を尽くしてブログに書いてきたけれど、その方向性は概ね間違ってはいないのだなという思いを新たにしたのだった。

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私の恩師は他者表象に深く関心を寄せる人だったので、当事者の特権化という言葉は研究者にあるまじき言葉だとは思うのだけれど、それでもそれを川野さんが是正した意義は大きかったのではないかと思う。

随分と長々と書いてしまったけれど、問題の所在を明らかにしておきたいという思いもあるので、ひとまず書きとどめておくことにする。