ANIRON

ひとりごと日記

2022.10.29 映画版「海獣の子供」と詩と

ここのところ著しく体調を崩し、なかなか創作に手がつけられずにいた。

嬉しい知らせはいくつも入ったけれど、昔取った杵柄じゃないかという思いが頭から拭えない。

今の私に一体何ができるというのだろう。こんなに何も持たない私に……と昨夜は考えてしまって、どうにもならなかった。

やはりしばらくの間はコンスタントに成果を出している詩を書くしかないんじゃないかとか、短歌はこの際切り捨てて、これ以上の環境の変化には心身がついていかないし、体調も改善しないので、小説の道はやはり諦めざるを得ないのではないかとか、さまざまなことを考えた。

その答えはまだ出ないし、すぐに出せるものでもないのだろう。

ただ、私はやはり詩を書いていたい人間なのだということは強く感じていて、それは主人と鑑賞した「海獣の子供」を観ていても直感的に思ったことだった。

プロットがほとんど成り立っていないこの作品で、唯一感じられるものがあるとすれば、それは台詞の言葉と、映像美のみなのだろう。

昔はそうした作品に強く惹かれたけれど、東大の大学院で文学を専攻していた主人とさまざまな作品を観ているうちに、私もプロットというものの構造が自然と把握できるようになり、これは「お話」として成立していないと感じた。

ただ、詩についてデデが語るシーンが印象的で、詳しい内容はあまり覚えていないのだけれど、その瞬間に、私はこの先もきっと詩を書きつづけていくのだろうということを直感したのだった。

そのセリフとふたたび出会いたくて、コミック版を購入することにした。

海というモティーフは、私自身度々詩のテーマとして描いてきたし、改めて海という存在を肌で感じたいと思う。それは作品という形で昇華された海であって、現実のものではないのかもしれない。

ただ、これほど私自身が海にこだわるのには、生来海街で育ったことにも起因しているのだろうし、海で危うく死にかけた体験ともリンクしているのだろうと思う。だからこそ、「海」や「空」が水分に触れていないと死んでしまうという切実さが痛いほどの実感となって私に迫ってくるのだ。

それはもはや理屈ではないし、プロット云々という話でもなく、至極私的で直感的なことであって、人とシェアできるものではないのかもしれない。

ただ、そのような感覚を、この原作者・五十嵐大介もまた、おそらく持っているのだろうと思う。海という存在へのおののきと、畏敬の念と、そして根源的な喜びが湧き上がってくるのを。

実はブックオフオンラインで注文したので、ついでにリサーチしたところ、高柳誠の在庫がいくらかあったので、こちらの二冊も注文した。

放浪彗星通信

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どうやらまだ詩から離れられそうにない。

小説もこの先機会を窺って書き進めたいと思っているけれど、私に課されたものは、やはり詩なのではないかと思ってしまう。

ここのところふたたびエミリー・ディキンソンに想いを馳せる日が増えてきた。

詩を書きたいという思いは尽きることがない。その思いを胸に、ふたたび詩の呼び声が聞こえてくるのを待ちたい。