ANIRON

ひとりごと日記

2022.11.05 芸術新潮2022年11月号養老孟司特集を読む

たびたびYouTubeの公式チャンネルなどを観ていることもあって、『芸術新潮』2022年11月号の養老孟司特集を買って、特集だけ目を通した。

ヨシタケンスケと養老孟司の対談

ヨシタケ 自分に向いていないことは、直感としてわかりますよね。若い方から「どうやって夢を見つけららいいんですか」「自分が何に向いているのかわかりません」という相談を受けることがあるんですけど、よく言うのは「自分の直感はかなり正解率が高いから、根拠がなくてもそれを信用していい」ということ。もちろん、やってみないとわからないこともたくさんあるけど、後から努力して挽回できることの割合はけっこう低いです。これをやるぐらいならこっちで我慢する、というラインを早めに見つけた人の方が、幸せと言われるものに近い生活が送れるんじゃないかと思います。

養老 嫌なことはできないし、できないことはやる気が起きないから、いつまで経っても着手できない。結果としてやらないままになります。

ヨシタケ 人間、幾つになってもひどい目には遭うもので、誰も悪くないのに、誰も幸せにならないような状況になるのは、もう相性の悪さとしか言いようがない。そういう仕事をしてきたはずなのに、やっちゃったな〜というようなことが、僕はいまだに2、3年に一度はあります。普段どれだけ恵まれているかをもいだすために、そんな目に遭うのかもしれませんけど。記憶をたどってみると、そういえば最初のメールの文末表現が気になってたんだよなとか、挨拶の時に先方がのってない気がしたんだよな、と思い出す。ちゃんと伏線があって、映画の予告編のようなものがあって、ちょっとずつ狭まっていたことに後で気がつくんです、そうして最後に恐怖の答え合わせがやってくる。

──『芸術新潮』2022年11月号、新潮社、2022年、pp32-33

 

山下裕二養老孟司の対談

山下 (…)美術館で絵を見るようになったのは、大学進学のために東京に出てきたからのことで、そもそも当時、地方には美術館がほとんどなかった。大学は、理科系がダメだったんで文系。政治、経済にはぜんぜん興味がなかったから、文学部。でも文学にも興味がないことに気づいて、美術史なんてジャンルがあるんだなと、そっちへ行きました。

養老 残りものには福がある(笑)。僕も消去法で解剖学を専攻しました。嫌いなことはできるだけ少ない方がいい。ゾウムシを集めているのも、消去法のようなものです。きれいな虫や、奇怪な虫、クワガタみたいなのはみんなが好きでしょう? 残ったのがどこにでもいるゾウムシです。虫取りに行くと目的の虫以外にゾウムシも採れちゃうから、みんな僕にくれる。もう、ゾウムシが溜まっちゃって。

──『芸術新潮』2022年11月号、新潮社、2022年、p43

特にこの箇所は、今後何をやっていこうかと思いあぐねていた私にとっては、糧となるものだった。

海獣の子供』を観て、強く「詩を書きたい」と思った時の直感を私は信じたいと思うし、小説に敗れ、短歌に敗れ、そうして残された詩を選ぶことは、詩というものと付き合う上での恐ろしさと、畏敬の念を覚える。

詩はいつでも私にとっては崇高なものだったなと思うし、その崇高さを少しでも仰ぎたいと願ってきた。

それは日夏耿之介が「美に跪拝せよ」と詩論で語っていたのに衝撃を受けた時からなんら変わっていない。

まだまだ短歌も模索の余地があるのだろうし、小説だって書きあぐねてはいるけれど、方向性として間違っているとは思わない。そうは云っても、もはやそれらは私がやりたいことではないのかもしれない。ただ詩を書きたいという強い想いだけがある。

「嫌いなことはできないし、できないことはやる気が起きない」と養老孟司が説いているように、結局のところ短歌も小説も、私のやりたいことではないのかもしれない。

必死に研鑽を積んでやっていくしかないと構えていたけれど、その構えを取り続けることにも少々疲れてきている。

この一年、ほとんど脇目もふらずに短歌を読み、作歌をし、詩を書いてきたけれど、コンスタントに成果が出ているのは今のところ詩のみで、小説だって商業誌に載ることが決まったとはいえ、打率が低いと云わざるを得ない。向いていないのかもしれない。

そして向いていないことを必死にやろうとしても、結局のところうまくいかないのだろうと思う。

それでも私はまたどこかで短歌を作るだろうし、小説も書くタイミングが巡ってくるかもしれない。それも自分の意思というよりは、そういう巡り合わせになるまで、もうしばらく待って、今は詩と向き合いたい。