ANIRON

ひとりごと日記

2022.11.18 大森静佳『カミーユ』読書会事前メモ

はじめに

10/19の午後にかねてから読書会をしているまさやまさんと主人とを交えて、大森静佳『カミーユ』を読むことになった。

これはその事前に用意した私のメモだ。

読書会後にまた経緯をまとめるつもりだが、ひとまず先行公開分として公開することにする。

ネタバレ防止として、11/19 21時に投稿することにし、11/20には読書会の中身について語ることにしたい。

 

その題材を選ぶ必然性について

「私」を通過しないところで選ばれた主題はどうしても弱くなる。「私」から出発するしかないんじゃないか。

→対象に憑依することで、対象を「私」にしてしまう。それがこの歌集の全範囲にわたって通底する演劇性となっている。

 

歴史上の人物を歌う

ゾフィー・ショルの連作について

反戦短歌。今という時代に読むにふさわしい。

なまくびを刈れという声さみどりのその声が私の喉を濡らした

ゾフィー・ショルの死と、現在の「私」とが、ここでようやく交錯し、 「私」が彼女の死を詠むことは、ひいては現在の都政であり、あるいは国政に対して反対の意を唱える「私」へと集約されていく。

この点について、歴史を通じて今を語る意義を感じる一方で、そこにはどこかゾフィー・ショルに憑依するかのような自己同一視が見られる。歴史上の対象を詠み込むということは、その一体化を完全には免れない。

 

・風(サルヒ)(p72 )

黒い馬、だったらよかった。わたしも。青空がずたぼろにきれいで(p76)

 

攻めなければ、感情の丘。この靴をこころのように履きふるしつつ(p80 )

 

前半の

皆殺しの〈皆〉に女はふくまれず生かされてまた紫陽花となる

 

灼けた土のような声だな、粗くって。声は呟くただ嫁(ゆ)け、とのみ(p74) 

フェミニズム的色合いの濃い短歌から一気に飛躍する開放感がある。疾駆する馬と女、そして「私」が重なり合いそうで、手が届かない。

東北を中心として、オシラ様信仰というものがあって、それは馬と人間の娘とが結婚するという異類婚姻譚なのだけれど、それをベースとして捉えると、ここで歌われる馬は男性性を意味し、「黒い馬、だったらよかった。わたしも」というフレーズは、やはりフェミニズム的文脈で捉えうる。

 

道成寺の連作「安珍さまへ」

恋歌の連作。自らを清姫に擬え、「安珍」である「きみ」への想いを吐露する。この歌人はやはり自らを歴史上の人物に仮託させることで、そこに演劇性を生じさせ、現実をフィクションと交差させていく。

ヒロインになりきるような、自己陶酔的な短歌という印象がある。

その後「きみ」の父が亡くなる連作(p90 冬の虹途切れたままに)が続く。

この演劇性について、まさやまさんの意見が聞きたい。

夢みたい、ではなく夢のなかみたい、とあなたは言えり傘濡らしつつ

とあるので、これは薪能なのだろう。

個人的に観能という体験、それも薪能を観るという体験は、やはりどこか呪術的な要素や、特異な没入感をもたらす体験なのだけれど、そうしたまじないとしての効果がこの連作にも表れているのかもしれないと思う。

 

「私」と「きみ」を歌う

冬の虹途切れたままに(p90)

背後より見ればつばさのような耳きみにもきみの父にもあった

 

鳶、ゆけ。ふかぶかとゆけ。その人の棺をえらぶきみのこころへ

 

狂い飛ぶつばめの青い心臓が透けてわたしに痛いのだった

古代では鳥は死者の魂を運ぶ象徴とされ、ヤマトタケル伝説などにも見られ、古墳にも描かれる。

ここで「私」は死者と交歓する鳥や空へと憑依し、死者の魂を青空へ運ぼうとするが叶わない。

一度だけ低い嗚咽は漏らしたりごめんわたしが青空じゃなくて

この歌集において最も「私」が「私」として雄弁に語る連作ではあるが、ここでもやはり憑依の問題がついて回る。

 

ornithopter(p106)

人類初の飛行機墜落事故の連作。

この連作については、承前の「冬の虹途切れたままに」を引き継ぐものなのか。

するどく、深く、旋回する鳶のあんな高さに心臓は鳴る

鳶というモティーフは「冬の虹途切れたままに」にも表れる。死者を歌うことで、自らの戸惑いややりきれなさを演劇的に表現しようとしたのだろうか。

この連作だけを取ってみると、なぜこの題材を選んだのかが明白でないけれど、前後のつながりを考えてみると、一連の流れの中で選ばれたものと思われる。

 

比喩表現について

感情が比喩で体現されているので、どうしても具象から抽象へと置き換わってしまう。普遍性は生まれるのかもしれないが、それを読み解くにはコードが必要になり、個別性の中に留まってしまう。

ただ連作の流れを汲めば自ずと意味するところが見えてくるし、歌集全体の流れにもまとまりがある。