ANIRON

ひとりごと日記

2022.11.19 #2 大森静佳『カミーユ』読書会を終えて、“Calling”としての詩

読書会について文章をまとめようと思っていたのだけれど、疲れが取れないので、以下、個人的なことを書く。これを書いているのは11/19 9時ごろで、疲労がピークに達している。

そろそろ本気で電気代の節約に努めなければならないかもしれないし、自室は冷えるので、極力リビングにいようと思うのだけれど、それもつらい。正直なところひとりの空間を確保して一篇でも詩を書きたい。

ぐるぐると思考未満の漠然とした不安や苛立ちが渦を巻いている。以下、その幾らかを形にしてみたい。

大森静佳『カミーユ』読書会を終えて、私は結局のところ短歌には向いていないのかもしれないという思いを新たにしはじめている。

そこそこ手広く創作を手掛けられた方が潰しが効くし、実際のところ適応障害で小説が書けなくなってしまっている現在、詩歌の道を選ぶ余地があったことは、私自身を救ってくれたと感じている。

ただ、詩歌にもさまざまあって、読めば読むほど、あるいは詠めば詠むほど短歌に向いていないと感じる。思い返せば俳句をよく作っていた時期は短歌の冗長さと過度なエモーションが苦手だと思っていたけれど、その印象はまだ私の心の奥底に眠っているのかもしれない。

実際には過度なエモーションにはそこに裏づけられた客観性が何よりも必要で、私にはその眼がないということを痛感するので、やはり作歌をするのに向いていないのではないかと思ってしまう。

東大の大学院で漢文を専攻していた主人から見ると、短歌は、文法的に厳密に言葉を当てはめる能力が必要で、それは基礎を学んでいない人間が後々習得するのは困難だということだった。

そう云われてしまうと、私はあくまでも散文的人間であって、詩も散文詩しか書けない。自由詩を書こうと試みたことも何度かあるけれど、いずれも不出来に終わってしまい、この12年の間書き続けてきたのはもっぱら散文詩であって、自由詩ではないのだ。

そうした時間も必要な尺度であって、短歌に関しては私は本格的に作りはじめてまだ一年ほどだし、力が及ばないのも、そうした要因もあるのだろうと思うけれども、やはり手広くやろうと考えるのがそもそもの間違いで、詩が書けるなら短歌だって詠めるだろうというのは大きな誤りなのだろう。

残された道は散文詩か、あるいは小説であって、他に道はないのかもしれない。

散文詩に本気で賭けるだけの意気地はまだないというのが正直なところだし、かといって小説をコンスタントに書いていけるだけのメンタルの余力はない。どうにも行き詰まっている。

小説が商業誌に掲載されることが決まったけれど、それと同等か、それ以上のものをコンスタントに書いていけるだけの能力は私には欠けているという気がしてならない。

そもそも私は小説を書きたいのだろうかと自問するとき、持病が篤くなる一方の今となっては必ずしもYESと即答できない。

以前、芸術新潮養老孟司特集を読んだときに、消去法で進路を選んだという趣旨のことが書かれていたけれど、私にとってそれは詩に他ならないのかもしれない。

せめて劇場版「海獣の子供」を観たときに感じた、あの焼けつくような「詩を書きたい」という渇仰感が欲しい。

先日主人と話していて、彼が読んだ『世界は贈与でできている』の中に、天職に関するくだりがあると聞いた。

英語で転職はCalling、つまり誰かの求めに呼ばれて決まるものであって、自分自身がこれをやりたいと強く望めばいいというものではないらしい。

又聞きの話で、出典を読んでいないので、これ以上のことは語れないけれど、それでもココア共和国に13回投稿して10回は佳作入選していることを考えると、少なくとも私の散文詩は求められているものではあるらしい。

もう一度詩にしっかりと向き合う時が来ているのかもしれない。