ANIRON

ひとりごと日記

2022.11.20 正岡子規『仰臥漫録』を読む

ここのところ心身の調子も悪く、諸事情あって困難な状況のさなかにある。

そのことについて他者からの何らかの言葉を受け取る気力が全くないので、とりあえず詳しいことは書かないでおくけれど、消耗しきっていて、日々正岡子規『仰臥漫録』を読むのが唯一の心のなぐさめになっている。

たびたび登場する「菓子パン」は、当時のことを考えるとおそらくあんぱんのことだろうと思って、あんぱんが食べたくなり、先だってはコンビニに出かけたついでにあんぱんを買って帰って、翌朝彼杵茶とともにいただいた。

子規の困難な状況と、秋から冬にかけての季節感が私自身の病める日々にぴったりとマッチして、子規に呼応するようにしながら読んでいる。

生きることに疲れたなぁ、なんの希望もないものなぁ……と思ってページをめくっていると、子規が家にあった刃物を見て死のうと思うのだけれど、その勇気が出ないということを著述するページに行き当り、この本は今まさに読むべき本だったのだなと思い至った。

子規の脊椎カリエスの病状は日を追うごとに悪くなり、包帯をたびたび取り替えたり、さまざまな身体的な症状が表れて、読んでいるだけでも痛々しい。そうして精神状態も悪化し、「逆上」という言葉がたびたび出てくる。

子規の生来の人格がそのような精神状態を引き起こしたというよりは、病による恐怖がそのような境地に至らしめたのだろうと同情してしまう。

はじめの方は妹の律に対してわがまま放題な物云いをしたり、のちに至っても「余命が宣告されればわがままを云い放題になる」などと書いていて、子規ばかりでなく、その看病をする家族の労苦も偲ばれるのだけれど、それも病気の成したことなのだろうと思うと、侘しい気持ちが込み上げてくる。

私が抱えている統合失調症も完治はしない病で、いっそ死んで楽になれたらと何度思ったかわからない。主人にも日々迷惑をかけているし、生きている価値がないと思うことも何かと多い。特にPMSが篤い期間は到底耐えがたいほどの希死念慮に苛まれて、先日は部屋着のまま家を飛び出した。

そうした状況が子規の予断を許さない状態とどこかで重なって、これまで療養詩歌を詠んだり書いたりしてきた私は、本質的なところではその一ジャンルから逃れることはできないのだろうなと思う。

写生というものがなせる技は、子規という病める人物の目を通るからこそより輝きを増すのだろうし、そこに詩歌を、あるいは文学一般を作る必然性のようなものがたしかに宿るのだろうと思う。

その必然性というものをやはり重んじたいと強く思うとともに、私もなんとか生きねばとも思うのだった。