ここのところ対人関係で悩んだり、創作の悩みがあったりして、なかなか前を向くことができず、詩作も滞ったりしていた。
ただ、対人関係について答えはまだ出ないにしても、もう少し未来志向になりたいとはここのところ考えていて、読書会にしても、主人とさらに漢詩読書会を進めたり、古典を読むという点で和歌や近代詩、近代短歌を読む読書会を企画しても良いかもしれない。
読書会を通じて人とつながるという経験をこれまでに私は何度か経験してきたけれど、東大の大学院で漢詩を専攻していた主人レベルでものを読める相手とはあまり出会えていないし、ここのところ対人関係の構築が困難な精神状態になってもいるので、主人と読書会を進めていくというのは一つの手なのだろうと思う。
特に和歌に関しては、ほとんど私は趣味レベルでしか触れられていないので、人とじっくりと講読するという体験をしてみたいし、近代詩も鑑賞という点ではそれなりに触れてきたつもりだけれど、今改めて触れてみたい。
想定しているテキストとしては、大森静佳『カミーユ』の流れで山中智恵子を読みたいとも思うし、和歌に関しては、主人の好きな万葉集と、私が愛好する新古今和歌集をそれぞれ読んでみたい。
万葉集に関しては、素人では通読は無理かもしれないが、中西進のテキスト『万葉の秀歌』もあるし、新古今和歌集も白洲正子の『花にもの思う春』という歌論エッセイがある。
あるいは原典講読という点では百人一首をじっくりと読むというのも良いのかもしれない。
近代詩に関しては、あまり難解すぎるものは読書会には向かないし、かといって平易すぎるものも解釈に違いが生まれず面白くない。
かといって現代詩は解釈の余地が広すぎたりして、読書会には不向きかもしれないので、やはり詩歌の中でも、特に評価が定まっているものや、古典詩歌を選ぶのが良いのだろうと思う。
私が大学の講義を通じて常々学んできたことも、まずは評価が定まっているかどうかが全てであって、それ以後のものは基本的には扱わないという姿勢が貫かれていたから、アカデミズムを重んじる人間として、その点は踏まえておきたい。
またそれぞれ好きな本を持ち寄って、それぞれの好きなペースで読む、ブルーベリー読書会改め、ウィロー読書会もしたいし、作業会もできればと思う。
こうしてみると、やはり私の中にはまだ短歌に対する未練というものがわだかまっているのかもしれない。時間をかけてじっくりと詩歌と向き合う中で、再び短歌を詠んだり、あるいは俳句を作る機運が高まる時期が再び巡ってくることも考えうるのだと思う。その可能性をまだ完全に排除するのは惜しいという気持ちもある。
例えば詩人であった鷲巣繁男は療養中に俳句を作っていて、その句集は私も所持しているし、あるいはまだほとんど未読のままだけれど、高橋睦郎は詩人であり、また俳句や短歌も作っている。
無論私にそのような大それた才能があるとは思えないけれど、そのような立ち位置を模索するということも排除しなくて良いのかもしれない。
これまであまりに一心に詩を書かなくてはという思いに駆られるあまり、詩と向き合うことが空恐ろしくもあったけれど、結局のところ私は器用貧乏な人間であって、本来は作句もすれば作歌もし、そして詩を書き、小説も作る人間だった。その生き方によって適応障害という難局を乗り越えてきたし、今もそうした器用貧乏な生き方に支えられている節は大きい。
まだ可能性を信じていたい。