そろそろ次の折本の詩歌集を作りたいと思い、どのような作品がよく読まれているのか気になって調べたところ、テーマやコンセプトを設定した詩集と、歌集を比較的よくお読みいただいているということに気づいた。
📘🦋凍蝶の弔いhttps://t.co/lRbkElmL3U
— 雨伽詩音 (@poesy_rain) 2022年12月2日
中里介山『大菩薩峠』の主人公・机竜之介にフィーチャーしたオマージュ散文詩作品集。
📕💐ねむれるものにはすみれの花をhttps://t.co/9kpSJcdv4l
人を狩る吸血鬼×眠りつづける吸血鬼の全年齢向け創作BL連作散文詩集。 pic.twitter.com/mlXlEG3TC5
🎐晩夏の詩神https://t.co/wUEPSvUzCP
— 雨伽詩音 (@poesy_rain) 2022年12月2日
世の終わり詩神は死せず海の果てきみとふたたび巡り逢うまで
💉病めるヒュプノスの夏https://t.co/jOls2LojGZ
第四回笹井宏之賞落選作を収めた歌集。
この恋も忘れてしまう錠剤は不老長寿の薬となって
ヒュプノスの恩寵のみに包まれて副作用の希死念慮来る
昨年9月から今に至るまで、私は必死にココア共和国やNHK学園主催の短歌の公募に投稿するためだけに創作を続けてきたのだけれど、一旦立ち止まって、私の作品をフォローしてくださっている方々がお読みになっている作品にも目を向けてみようと思ったのだった。
私は短歌が下手だし、作歌もここのところなかなかできていなかったけれど、改めてもう少し頑張ろうと思い直す。
短歌は投稿してもなかなか手応えを得られないかもしれないというおののきに支配されて、心が挫けていたのだった。それでも短歌でなければ表現できないこと、短歌だから試せる表現がある。
それを強く感じたのが、先日読んだ大森静佳『カミーユ』で、これに続く形でどんどん歌集を読んでいきたい。かといってそう簡単に上達するものでもないかもしれないけれど、まだ食らいついていたいということは先にも書いた。
こうしてみると、やはり私の中にはまだ短歌に対する未練というものがわだかまっているのかもしれない。時間をかけてじっくりと詩歌と向き合う中で、再び短歌を詠んだり、あるいは俳句を作る機運が高まる時期が再び巡ってくることも考えうるのだと思う。その可能性をまだ完全に排除するのは惜しいという気持ちもある。
例えば詩人であった鷲巣繁男は療養中に俳句を作っていて、その句集は私も所持しているし、あるいはまだほとんど未読のままだけれど、高橋睦郎は詩人であり、また俳句や短歌も作っている。
無論私にそのような大それた才能があるとは思えないけれど、そのような立ち位置を模索するということも排除しなくて良いのかもしれない。
これまであまりに一心に詩を書かなくてはという思いに駆られるあまり、詩と向き合うことが空恐ろしくもあったけれど、結局のところ私は器用貧乏な人間であって、本来は作句もすれば作歌もし、そして詩を書き、小説も作る人間だった。その生き方によって適応障害という難局を乗り越えてきたし、今もそうした器用貧乏な生き方に支えられている節は大きい。
あれから大森静佳『ヘクタール』を少しずつ読み進めていて、一周目を終えた。
まだ読みこなせていないので、あと何度か通読するつもりでいる。あとがきに短歌を詠むことの苦しさを綴っていたのが深く印象に残った。
詩を書くこともまた苦しい。短歌を作ることもやはりつらい。それでも向き合うしかない。
それから高橋睦郎の詩歌集を注文し、石原吉郎の詩集も購入することにした。
とにかくまだまだ手を尽くしてはいないのだから、できることはとことんやるしかない。
私は統合失調症で抑うつ状態に陥り、時に希死念慮に駆られることも多い中、医師からしょっちゅう「頑張ってください」と云われて嫌気が差しているのだけれど、それでも頑張るしかない。
馬車馬のようにしゃかりきになって二つのブログをほぼ毎日更新して、詩歌を作って、その成果は思うようにならないレベルのものではあるけれど、それでもゼロではない。
先日、とあるワードでGoogle検索をしたところ、アルファブロガーのシロクマさんのこちらの記事がヒットして、ぼろぼろ泣いてしまった。
つねづね臨床場面を眺めていて思うんですが、うつ病の患者さんなどは、たとえ励まされていなくても(形は違うにせよ)がんばっているように思います。
やり方はいろいろですが、彼らもまた、回復を目指して「がんばって」いるようにみえるんです。「がんばらないことをがんばっている」というか、休息しているんだけど、生命としての輝きを取り戻すために苦心している、という気配があります。あるいは、そうした気配が乏しい場合も、生命としてのホメオスタシスを保つために苦慮している、と。なにより、うつ病を安楽の境地として楽しんでいる人なんていないわけで、彼らは苦しい時間をのたうつように生きて、「がんばって」、ようやく回復の目途をつけるようにみえるのです*1。
慢性期の統合失調症で長期入院しているような患者さんにしても。高等遊民のように暮らしながら形ばかりメンタルクリニックに通っているような患者さんにしても。時折みせる人生の翳り、悲しみ、怒り、そういったものに触れる時、世間的には「がんばっていない」とみられそうな人々もやはり人生を戦っている、「がんばっているんだ」と感じるんですよ。第三者的にどう見えるのかはわからないけれども、主観レベルでは、彼らもまた、人生を戦う戦士なんだと推定します。
まだ頑張るしかない。
例え成果を成果として脳の報酬系が受け取れないにしても、昨日果たしたことを今日にはもう「それは過去のもので、今の私はまるでダメだ」と嘆く夜がつづいたとしても、それでも。