ANIRON

ひとりごと日記

2022.12.03 AIと詩について

デジタルの快楽にはすぐに飽きる。結局ポケモンSVをまともに起動させないまま一週間が終わろうとしていて、AIイラストでIF(ここではイマジナリーフレンド)のオリジナルキャラクターを錬成するのに一日ハマったあと、急に熱が冷めてしまった。

人間は脳だけでできているわけではないし、脳で得られる情報だけでは満たされない。だから養老孟司の著作に触れる意義はそうしたところにもあるのだろうと思う。

何か、自分の頭で考えて、体を通じて感じてものを作るという工程を経なければ、生まれてこないものもあるのだろうと思う。

それは綺麗事ではなく、現に私はとあるイラストレーターさんのドローイング原画を寝室に飾っているのだけれど、少数派の性的指向を持つ「They」が作った作品で、私もそこに想いを重ねる部分があるから、その価値があると私は思っているし、それは単にBLだとかGLだとか、表層的な表現では測りきれないところに意味があると感じている。

漫画ではなく、作者の背景にそうした「ストーリー」を求める方向にこれから先は動いていくのかもしれないし、「この人の描いたものだから手元に飾りたい」と思わせるイラストレーターさんの存在はやはり大きい。

私が好きなイラストレーターさんや、私が気に入って買った本を出しておられる方を鑑みても、やはりそこには作者の人となりや、「ストーリー」があって初めて成立するものが多い。

AIに食われるのは本意ではないので、それらのイラストレーターさんの具体的な名前や作品は挙げないでおくけれど、いわゆる「モノ」消費から「コト」消費へという流れはイラストにも押し寄せてくるのかもしれない。

そうして私自身が手がけている散文詩も、あるいは小説も、いずれはAIに取って代わられるのかもしれないし、実際にTwitterでプロ作家の方がAIについて言及しておられる場面を何度か見た。

いずれも好意的な受け止め方であって、もはやこの流れはとどめようもないことであるのは確かだけれど、例えば某サークルに所属していた時期に、私の改行なしという詩形をそのまま真似されても、その人の詩が成立しなかったように、形や単語のチョイスだけを真似して、文体を似せたとしても、その時指先からどの言葉が発せられるかわからないという発語の問題は、AIにはどうしても生じ得ない。

無論テキスト論的に考えれば、作られた詩が全てであって、私が健常者だろうが障害者だろうが、そんなことはさしたる問題にはならないのだけれど、おおよそ広く世の中一般を考えたときに、そこに作者の存在を完全に視野に入れずに読むという芸当がどれほどの人にできるだろうかと思う。

もちろん私の詩そっくりな詩をAIが書いたとしても、私の書く「あなた」という表記の向こうにいる人間たちと、AIの書く「あなた」では意味が異なるだろうと思う。もしかしたらそれは読み手である読者という意味の「あなた」かもしれない。

私は「あなた」という言葉を隠れ蓑のように使って詩を書いている人間なので、「あなた」の向こうには、特定のある人がいたり、また別の詩では別の誰かがいたりする。その意味づけをAIが行うことは不可能なのではないか。

私はこれまで詩を書いてきて、「あなた」の意味するところを明かそうとしてこなかったし、それは今後とも変わらないだろうと思う。だから私は誰にも見せずに詩を書きためることができるし、そうした詩との密接な関係があるから「あなた」へ言葉を投げかけられる。

冒頭に性的少数者が用いる「They」という言葉を便宜的に用いたけれど、人称というものはアイデンティティと密接に関わっている。そこに何を意味づけるのか、それは最後に私たち人類に残された、最後の「私」のよりどころなのかもしれない。