溜まった詩を折本にしてもいいのだけれど、コンセプトを決めて、それに沿う形の方がお手にとっていただきやすいかと思い、新たな折本の構想を練りはじめた。
コンセプトは冬から春にかけての詞華集で、短歌も入れたい。念頭にあった『和漢朗詠集』をふたたび手にとってしばらく読んだ。
無論ここから取った詩歌になぞらえた作品を作って編んでもいいのだけれど、それだと私の独りよがりになってしまわないかと危惧してしまう。『和漢朗詠集』は人口に膾炙した詞華集ではないので、コンセプトは重んじつつ、エッセンスも取り入れながら、やはり私自身の作品に落とし込まねばならない。
先日読んだ大森静佳『ヘクタール』では、川上未映子作品や、源氏物語の和歌を再解釈した歌が並んでいた。
まだ読みこなせていないので、なんとも云い難いのだけれど、既存の和歌や作品をベースに作歌をするということは、その責を負わねばならないということでもあり、学生時代であれば無鉄砲に作ったのだろうけれど、今は足踏みしてしまう。
作品の中に陶酔的に自己を重ねていくということを、私自身もよくやってしまうタイプの人間なので、こういう短歌が作れたら面白いだろうなとは思う。ただ、そこに読み手が立ち入る余地はあるのかと問うとき、何とも答えがたいものがある。
自己陶酔の枠を超えて、作品として成立させる技巧があるからこそ、大森静佳の歌は多くの人の元に届くのだ。その技巧が私にはない以上、私は私の範囲に留まって歌を作るなり、詩を書くほかないのではないか。
或いは塚本邦雄『定家百首』レベルの芸当ができれば、その責任を十全に担ったということが云えるのかもしれないけれど、到底その役割を担うだけの力のない私は、せいぜいこれからも折に触れて古典に触れ、古典を学ぶという意欲を持ちながら作歌・作詩に励むほかない。
とはいえ、ここまで書いてみると、その挑戦をしてみるということも、新たな契機となって、後々につながっていくことになるのかもしれないと思い至る。その役割をまだ十分に果たせないとしても、挑戦すること自体は無意味ではないのかもしれない。
そのアレンジは和漢朗詠集の詩歌の解釈として成立し得ればいいのだし、それが拙いものであっても、今後いっそう学んで深めていけばいいのかもしれない。
新たなものに挑戦したいという思いはここ数日ずっと強く持っていたことでもあるし、今後の励みとしたい。
とはいえ、まだまだ今後コンセプトは踏まえながらも、方針転換をすることも考えうるので、ひとまず思考メモとして残しておくに留める。