ANIRON

ひとりごと日記

2022.12.10 どのように生き、どのように死ぬべきか考える

享楽的に物事を楽しむことには不向きなタイプなのだけれど、ここ数日はもっぱら享楽的にものを食し、物事に興じていて、そういう自分が情けないような気もしてくる。

snowrabbit21.hatenablog.jp

享楽的と云ってもダラダラとものを食べたり、あるいは食べ過ぎたり、無闇に高いものを食べたりしているわけではないし、物事に興じるにしても、自分なりに歯止めをかけたりしているのだけれど、一方でそうした態度が主人との団欒の和やかなひとときであったり、創作BLへと向かう原動力にはなっているので、必ずしもマイナスなことばかりではないのかもしれない。ただストイックさを失ってしまうと、その分なくしてしまうものもある気がして、ゲームだけはどうしても先にどんどん進められず、ポケモンSVも足踏みしている。

自分を麻痺させてしまうものが怖くて仕方がない。そういえば昔つながっていた人に理性が溶けるのが嫌でお酒を飲まないという人がいたけれど、私もどちらかというとそういうタイプの人間なのだろう。同様の理由から私もお酒を飲まないようにしている。

理性を溶かそうとするものに対して、どうしても否定的な反応になってしまって、心から物事を楽しめない。

ただ、今の世の中の状況はあまりにも悪すぎる。

時代はどんどん悪くなる一方だし、こればかりは自分がどう足掻いたところで何も変わらない。ならば楽しめるものは楽しむなり、ネガティブなものばかり直視するのをやめるなりしないと、自分のメンタルをこれ以上損なうことにつながりかねないのかもしれない。

不安要素はかき集めようと思えばいくらでもかき集められる時代になってしまった。

ここのところニュースも極力見ないようにしていて、自分からアクセスする頻度はかなり落ちている。

詩歌にしても、自傷行為のように自分のネガティブなところを掘り下げて、さらに掘ってばかりいてもしょうがないのかもしれない。

ネヴィル・シュート『渚にて』の登場人物たちのように、私たちに残されたのは、もはや「どう生きるべきか」ではなく、「どのように自分らしさを全うして死ぬか」という問題なのかもしれない。

渚にて』は終末世界で自らの意思を持って死を選ぶことが、逆説的に人間の生き方や命の尊厳を示すという小説だが、もはや我々の生きる時代もそうした局面に差し掛かっているのかもしれない。

そこに人間の最後の尊厳があるのだとすれば、『渚にて』のキャラクターのように愛車でレースに出て爆走したのちに死ぬのも結構だろうし、とにかく自分の手放したくないものを重んじて、できるだけ愛情や情熱を注いだ後に死ぬというのもいいのだろう。

そのように考えてみると、今のうちから自分が本当に大事にしたいものを守れるように、そこにできるだけ時間や気持ちの割合を割けるようにしておきたい。

私の場合は創作であったり、主人との和やかなひとときであったり、冴ゆと過ごす時間であったりするけれど、そうした大切なものをしっかり握りしめて味わうひとときをもっと大切にしたいと思う。

少し前までは創作で世に出られなければ生きている意味がないと思っていたけれど、今は大切な家族との暮らしが第一で、世の中も雲行きが怪しくなっている以上、世に出ることが果たしてベストなのかと思ってしまう。

もちろんその欲が失せたわけではないけれど、自分の手の届く範囲のものをもう少し大切にするということが、かえって私自身の生きることの価値を高めることにつながるのかもしれない。

これはあくまでも思考メモであって、明日になればまた心のギリギリのところまで踏み込んで詩を書いているのかもしれないけれど、それでも映画「阿弥陀堂だより」のおうめ婆さんの「切ねぇ話はもうたくさんだ」という趣旨の言葉を思い起こす。ここのところ何度も頭の中でリフレインしているセリフだ。

戦時中を生きて来たという設定なのであろう彼女が、絞り出すようにして口にするこの一連の話は、「小説を書くということは阿弥陀さまを彫るということ」というこの映画のテーマにつながっていくのだけれど、そうした理想美を創作で掲げることに、ふたたび回帰してもいいのかもしれない。

とにかく世知辛い話にはもううんざりしているというのが正直なところで、創作BLという血迷った道に足をふたたび踏み入れたのもそうした背景があってのことだったのだけれども、創作BLはともかくとして、NLにせよ、少女趣味なものにせよ、もう少し自分自身に享楽的になることを許してもいいのかもしれない。

時代のせいにしてばかりもいられないけれど、今はできうる限り自分らしく生きられるように、主人と冴ゆという家族を大切にして、自分なりのペースで創作をつづけながら生きていきたい。