まともに眠れず、昼ごろ起きて動こうとするのだけれど、どうにも体が重い。
やむなくぼーっとしたまま冴ゆを膝に抱えて過ごし、それからベッドでうとうととして、ふたたび起きたのだったが、頭がぼんやりとしてうまく働かないまま夜になってしまった。
詩を二篇ほど書いたけれど、今ひとつ納得できない。何かが決定的に欠けている。それは自分自身の根源的な悲しみや痛みから目を背けようとしているからなのだと分かっていても、そこを直視するだけの気力が今はない。
詩を書いていくにも、その資質が常に問われる。今の私にその気力はないのかもしれない。思うように詩が書けないとき、友人がとあるアーティストを評して云った、「飢餓感が足りない」という言葉を思い出す。
飢餓感は私自身にももはやないのかもしれない。飢えというより渇きと表現した方が、拒食気味の私には合っているのだけれど。渇仰するという心の動きがない。詩は絶えず渇仰されることを望む。あらゆる創作というものにおいてそうであるように。
まだ詩と向き合わねばならないと思う反面、やはりもう苦しい思いばかりするのは嫌だという気持ちもある。詩を書くのはどうしても苦しさを伴う作業であって、その昇華を経ないまま、次の渇仰へと向かっていく。ノンストップで渇く。
それでもなお詩から私自身が離れられるとはやはり思えない。小説を書くにしても、何かしらの形で詩を書き続けるのだろうと思う。別に誰からも求められなくても構わないし、日の目を見なくてもいい。そういう詩がメモ帳にたくさん眠っている。それらを掘り起こそうとは思わないし、詩と私、ふたりきりの秘密もある。
そうして詩を書くというよりは、書かざるを得ないという状況が続くのであれば、私が詩を捨てることはないのだろうと思う。詩が私を見放すことはあるかもしれないけれど。
詩を書くと決めて買った、アメジストのヴィンテージのブローチを想う。
詩というのは鉱物に近く、結実させるために月日を費やす。磨いていくにも時間がかかる。
それでもなお詩を志向していたい。
それにしても今日はほとんどお茶をするゆとりもなく、個人的に充実した時間を持つこともできなかったので、今夜もうまく眠れないかもしれない。
小説の準備を少しずつでも進めていくためにも、十分な睡眠は必要なのだけれど、ここのところ身近な出来事で色々と参ることがあったので、ストレスが心身に表れている。
せめてほんのひとときでも心が休められる時間を作りたい。
ここのところなかなか本も読めておらず、焦りは募る一方だ。今年はなかなか軽めの本に終始してしまって、がっつり読書に取り組むということができずじまいでいた。
年末はもう少し読書に時間をかけたいし、詩歌も小説も読みたいものを本棚の一角にまとめてみたい。