ANIRON

ひとりごと日記

2022.12.17 テレッテレー参加と詩歌の道

Twitter発のオンライン作業会「テレッテレー」に参加した。

おやつタイムには、誕生日プレゼントにいただいた焼き菓子と、千疋屋ミルフィーユ、ルピシアダージリン2ndフラッシュを用意した。

器は念願のバーレイのトーキーブルーウィローのトリオを用いた。

作業内容としては、ひたすら詩歌を作っていた。

散文詩を書き、それに呼応するように短歌を詠み、さらにそれに応じて散文詩を書く、の繰り返しで、私は本当に詩歌を作るのが楽しくてしょうがないのだなと実感した。

ファムファタールズに寄稿する詩は四篇になり、別途作った散文詩は三篇、短歌は合計二十一首と、そこそこの成果を上げることができたのではないかと思う。

短歌はまだまだリハビリが必要で、思うように詠めないもどかしさもあったが、少しずつ水準を元のレベルにまで戻し、さらに上を目指したい。

小説のプロットを練りたいとか、Google Keep本を進めたいとか、さまざまにやりたいことはあったのだけれど、テレッテレー開催時のモードが詩歌だったので、Coccoを聴きながらひたすら没頭していた。

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以前読んだ芸術新潮養老孟司特集で、次のような箇所があったのを思い出す。

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ヨシタケ 自分に向いていないことは、直感としてわかりますよね。若い方から「どうやって夢を見つけららいいんですか」「自分が何に向いているのかわかりません」という相談を受けることがあるんですけど、よく言うのは「自分の直感はかなり正解率が高いから、根拠がなくてもそれを信用していい」ということ。もちろん、やってみないとわからないこともたくさんあるけど、後から努力して挽回できることの割合はけっこう低いです。これをやるぐらいならこっちで我慢する、というラインを早めに見つけた人の方が、幸せと言われるものに近い生活が送れるんじゃないかと思います。

養老 嫌なことはできないし、できないことはやる気が起きないから、いつまで経っても着手できない。結果としてやらないままになります。

結局のところやはり私は詩歌を作りつづけるしかないのかもしれない。そのことは、その後主人に誘われて観たスピルバーグ監督の「フック」を観て強く感じたのだった。

練り込まれた構造的なプロットと、無駄を削ぎ落とし、きちんと意味のある象徴性のモティーフを取り込みながら、それが過剰になりすぎず、物語としての密度を保ちながらも破綻しない、工芸作品のような映画だった。

ストーリーとしては子供向けに作られていて単純なのだけれど、その奥深さを掘り下げていくと、フック船長のキャラ造形だけで一晩語り明かせるだけのシナリオが用意されており、そうして論理的に物語を構築していくだけの力が私にはやはり欠けていると痛感したのだった。

主人とその後観たい映画の話になったついでに、欧米映画、それもハリウッド映画の多くはヒューマニズムを謳う一方、日本映画は情しかないと語っていて、私はどう考えても情でしか創作ができない人間なのだなということを噛み締めてしまう。

どうしても論理的にプロットを構築していく力が弱く、短編や掌編ばかり書いているのも、長編を書く気力体力がないからだと思っているけれど、プロットの構成力のなさも大いに影響している。

プロットさえしっかりしていれば長編も書けるというのが小説の仕組みなので、ここが弱いと本当に話にならない。

そして私は映画「フック」を観て、改めて自分自身は「お話」を作りたいわけじゃないんだよなということも改めて感じた。イメージの世界を詩歌によって構築していくことに強い喜びを感じる人間なので、そうしたものを小説に仕立てようとしても、早晩プロットが破綻してしまう。

ハリウッド映画のように完璧にプロットを練り込むことは難しいのは百も承知だけれど、私はやはりこの一年歩んできた道を大事にしようと思い直したのだった。

詩歌はいくらでも作れるけれど、小説となるとそうはいかないということを実感した一日になったし、詩歌はとにかく量をこなさなければ話にならない世界なので、こちらは忍耐強くやっていこうと思う。