ANIRON

ひとりごと日記

2022.12.25 『銀河鉄道の夜』と書評集を読む

実家がらみの対人関係で一悶着があり、一日中消耗していた。

やむを得ないので、少しでもクリスマス気分を味わおうと、宮沢賢治銀河鉄道の夜』を再読してぼろぼろ泣いた。

宮沢賢治を心の師のひとりと仰ぎながらも、自分自身はその理想にはほど遠い、罪深い人間だということを感じずにはいられない。

銀河鉄道は死へと向かっていく電車であって、そこに乗ることが許されるのは、本当に心清らかで、真っ当な人間のみなのであって、実家と反目し、実家の無鉄砲かつ無遠慮な仕打ちの数々に折り合いをつけられず、病を抱えて日々朝まで眠れずに生きる私に救いなどもたらされないのだろうと思ってしまう。

「お父さん、お母さんに会える」という救いは、私には与えられないし、与えられることを拒んでしまった身に、いかなる宗教も救いの手を差し伸べ得ない。

私が信じるものはただふるさとの土俗的な民間信仰のみであって、今ようやく現在住んでいる土地へと、そのアイデンティティの基盤が移りつつあるが、それも土俗的な信仰であって、竜宮レナの云うところの「オヤシロさま」的信仰に留まっている。

キリスト教カトリックの高み、法華経の説く唯一絶対な存在としての仏の伸べる御手にはついに到達し得ないという挫折感をふたたび味わってしまう。

ただ理想的な美を掲げて直走った20代に比べて、なんら理想もなく、病み疲れて朝方に眠るばかりの日々に、どれほどの価値があるのだろう。愛するものは傍にいてくれるけれども、その愛情を受け取る資格もない。

「天のみなしご」という言葉を使って短歌を詠んだことがあったけれども、やはり私は天のみなしごであって、キリスト教的神の御手、仏の恩恵も遠く及ばない罪人だという意識が拭えない。

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私はもはや理想や人生の高みを目指すことにも倦み疲れた人間であって、この先も病み果てて地を這うような詩歌を作っていくほかにないのかもしれないと思う。

美に跪拝するという日夏耿之介の精神をどこかに置いてきてしまった。摩耗する日常の中で、延々と繰り返される苦しみの波が押し寄せてくるのを、ただただ立ち尽くして待っているしかない。

宮沢賢治もまた終生父親と和解することができず、その桎梏に随分と苦しんだ人間でもあった。

銀河鉄道の夜」における父親の不在は、その証左であるとも云えるのかもしれないし、その父親が罪人という濡れ衣を着せられていることにも、全く意味がないわけではないのだろうと思う。

病める母のために活字を拾い、わずかな賃金で牛乳を購って母親の看病をするジョバンニの像は、ヤングケアラーの類に一応属していた私にとっても胸に迫ってくるものがあった。

病める母をそれでも求めるというモティーフは、いずれ創作の中にふたたび落とし込みたい。それは苦しみを伴う作業ではあるけれど、それでも私の中では必然性を帯びている。

そうして気落ちして、岩倉文也の書評集を読みはじめた。

うーん、内容が薄い、薄すぎる。本についてどれほど掘り下げられるかが書評の醍醐味だというのに、ごく薄い「印象」のレベルでしか物語を受容できていない。ロジカルなところまで文章が昇華されていないので、読み手としては本を読んで彼の受けた印象をなんとなく掴み取ることしかできない。

冒頭に「ぼくは本の内容に没入しなくなった」とあるけれど、明らかに本の内容が著者の身体を通過していないという感覚があり、それが文章や、ひいては彼の作品にも表れていると感じてしまう。

比べてしまうのは失礼なことかもしれないが、同じジャンルの著者だと、明らかに吉田隼人『死にたいのに死ねないので本を読む』に軍配が上がる。

内容の充実度といい、語り口といい、一つの文芸として成り立っていて、十二分に読み応えがあるので、ぜひおすすめしたい。年末年始、帰る場所もなく、ただただ終末感がひたすらに押し寄せてくるのを待ち受けるしかないという方に勧めたい。

もっとも両者とも文学理論ないしナラトロジー的文脈で書かれた本ではないので、厳密には読めているとはやはり思えないのだけれど、それでも話芸と掘り下げていく力という点では明らかに吉田隼人の書評の方が優れている。

岩倉文也の自選五首もTwitterで見てしまったけれど、短歌を詠むには拙いレベルで、こうして明らかに拙い短歌を目の当たりにすると、なぜ私は短歌を詠むのをやめてしまったのだろうという憤りすら感じる。

高みを目指していると、自分以上に上手い人はいくらでもいるし、私は短歌に向いていないのだと思って挫折感を味わってしまったのだけれど、私の目から見ても明らかに拙い詠み手もいる。

もう少し踏みとどまって短歌を作っていくべきなのかもしれない。どのみち小説はこの体調ではしばらく先まで書けそうにないのだし、詩作一本に絞ろうかとも思ったけれど、詩だけに注力すると、今度は精神的に保たないのは目に見えている。

適応障害を患っていることもあり、潰しは効けば効くほどいい。

実際そうして小説から詩歌へと鞍替えしたのだったし、ここで短歌をやめてしまうというのはもったいないのかもしれない。

病状が安定しないので、短歌講座の受講は相変わらず困難と云わざるを得ないのだが、どこかのタイミングで受講することを検討したい。