ANIRON

ひとりごと日記

2023.01.24 現代詩手帖を通じて詩作の方向性を考える

今日は比較的仕事へのモチベーションも高く、仕事も捗った。

終業後、こちらの漫画がTLに流れてきて、すぐにこたつに場所を移した。

ルピシアのキャラメレと、主人にプレゼントしてもらったチョコクランチをいただいて、ほっとひと息ついて、本棚を目にして焦りが募ってきた。

随分と詩歌を積んでしまっていて、一昨年、昨年と読んできたものの、今年はまだなかなか読めていない。

ココア共和国に二度連続で落選してしまったこともあり、詩論に触れたいと思って、現代詩手帖を手に取ることにした。

すべて目を通した訳ではないのだけれど、特に高橋睦朗の詩と、小笠原鳥類・平川綾真智の対談「危機のなかで、過激に壊れる」が印象深かった。

高橋睦朗の詩は以前にも現代詩手帖で触れて、「なんてかっこいい詩を書く人なんだろう」と強烈なインパクトを受けたのを覚えている。彼の詩集や歌集、句集も買って積んでいるので、やはり読まなくてはならない。

それから対談については次の箇所が目に留まった。

最近の詩集をいくつか挙げると、紫衣さんの『旋律になる前 の』はとても自分というものが壊れそうな切実な危機を感じさせるし、(…)蜆シモーヌさんの『なんかでてるととてもでてる』はひらがなが多い白いドロドロの言語が展開されて人間の身体の危機そのものですね。

紫衣さんは現代詩手帖賞を受賞した際に、現代詩手帖で作品を読んでファンになり、詩集も買って通読した。Twitterで相互フォロワーをさせていただいているのは、身にあまる光栄だと感じている。

ただ、私の読みはそこまで至っていないと今回のくだりを読んで感じたし、まだまだ読みを深めていかなければならないのと思った。

シモーヌさんの詩集はかねてから買わねばと思っていたうちに第二詩集が出て、できれば両方とも早い段階で確保したい。

ただ、ここで云いたいのは「危機」という表現であって、私は詩作を通じて、自分なりに自己というものが直面している危機について対峙し、それを詩にしてきたつもりだけれども、その方向性について、ここのところ思い悩むことが多かったなと感じる。

自己のバランスが崩れたり、困難に直面したりする危機に際して、私はもはや詩というものに拠ってしか言葉を発することができない夜明けを何度も経験し、その拙い詩を主人に送りつけて迷惑がられたりもしたのだけれど、そうしたヒリつくような体験から目を背けようとしている自分に対して、強い違和感を覚える。

自己というものを許容するに至れない、葛藤やわだかまりになんとか踏みとどまらなければならないという状態はつらいものではあるけれど、去年一年間はそうした内面の底知れない闇を抱えて、夜の底を歩くようにして生きていたから、なんとか詩も切実さを帯びていたのだろうと思う。

今の私は、その切実さをどれほど担保できているだろうかと自問するとき、なんとも答えに窮してしまう。詩作を通じて社会から逸脱していくことは、私にとって必要なのだということを以前書いたけれど、その逸脱という行為にもう少しきちんと目を向けて、それをどのように表現すべきか考えた方がいいのかもしれない。

行為そのものについて深いまなざしで捉え、その思想性について考えを深めることは決して無意味ではないと思うし、新たな詩作の局面を迎えているのだと思って、今後とも詩を書いていきたい。