ANIRON

ひとりごと日記

2023.02.01 #2 ことばをひらく

ブックライティングの仕事で言葉を開く作業を繰り返していたこともあり、「詩も言葉を開いてひらがな混じりにしてみたらどうなるのだろう」と思い、ここ数日試している。

ただ、元々私の詩形は改行なしで書くスタイルで、漢字がぎゅっと濃縮されていくさまが美しいと思っていたので、ひらがなはあまり意識して使ってこなかった。

谷崎潤一郎石川淳など、ひらがな混じりの文体を作っていくのは、それ相応の技量とコツが必要で、素人が安易に真似をしようとすると、どうしても鼻白みたくなる文体になる。

それが嫌で避けてきたのだけれど、ルビを振るのも面倒だし、ひらがなにしてみるかと思って、いろんな箇所を直していると、詩というものはやはりリズムでできているということをまざまざと思い知る。

筋に沿って食材の肉を切るように、言葉にも筋や流れがあって、それに沿ってひらがなに直す。その見極めはまだまだ私にはできているとは云いがたいのかもしれないが、一箇所をひらがなにすると、全体的な配置を見直さなくては、どうしても不自然な形になる。

思い起こせば、同人をメインで活動していた頃に、ひらがなの開き方が美しい人がいて、ずいぶんと憧れたものだった。表現というものについて考えるとき、私の基軸となっているのは、谷崎潤一郎泉鏡花といった文豪の他に、その人や、音楽の表現のあり方について熱心に指導してくださった、吹奏楽部の恩師のことを思い出す。

そうした人々の文筆や、あるいは恩師の言葉を礎に、今、私は言葉を扱って詩を書き、あるいは小説をこれからふたたび書こうとしているのだということを忘れずにいたいと思う。

詩はファイティングポーズを取らねば書けないものだと昨年中は考えていたけれど、ファイティングポーズの取り方にもさまざまあって、ひらがなを用いるということは、柔術に近いのかもしれない。もっとも私は柔術古武術には詳しくないので、力を抜いて相手を倒すという姿勢という大雑把な認識でしか捉えられていないのだけれど。

ただ、そうして構えの取り方にもさまざまな志向性があるなということをここ数日感じている。その今の構えがどこまで通用するものなのかはまだわからない。自分のものとして使いこなすには至っていないので、しばらくの間は投稿などはせずに、習作を積み重ねることになるかもしれない。

試しにこの一ヶ月、納得いくまで詩におけるひらがなと向き合ってみたい。それでまた思うように結果が出せなければ、新たな方向をさらに模索するつもりだ。